イエス・キリストの贖罪

出典: MormonWiki

贖い から転送)

末日聖徒イエス・キリスト教会では、イエス・キリストの贖罪は、大いなる救いの計画の中心の教義であることを教えています。ある時、預言者ジョセフ・スミスは、「あなたの宗教の基本的原則は何ですか?」という質問を受けました。その問いに対して預言者は、「それはイエス・キリストは死なれ、埋葬され、三日の後に復活され、昇天されたという使徒と預言者らの証であり、わたしたちの宗教に関わるその他すべての事柄は、これに付属するものに他ならない…。」と答えました(「預言者ジョセフ・スミスの教え, 」121)。

イエスの最も大切な使命は贖罪であり、これがモルモニズムの最も重要なメッセージです。

世界史上最大の出来事である贖罪は、ゲッセマネの園と十字架上のイエスの苦しみを通して成就しました。 限界ある人間の考えではとうてい完全に理解することはできなくとも、私達の罪のためにイエスがどれほど苦しまれたかについては、聖典を読めばゲッセマネの園でイエスが人類の罪の重荷のため、体のすべての毛穴から血の滴る苦痛を感じられたということを知ることができます(ルカによる福音書22:39-44)。

その後、イエスは十字架上に掛けられ、人間が作り出した最も残酷な処刑方による苦痛の死を自ら進んで忍ばれました。

この苦悩に満ちた経験を味われた救い主ご本人が、「見よ、わたしは…すべての人に代わって…人々が…苦しみを受けることのないようにした。」(教義と聖約19:16-17)と述べておられます。

神の御子としてイエス・キリストは、私達の罪を贖うために無窮の犠牲を払うことができる唯一のお方でした。イエスは贖罪に於けるご自分の役目を果たされましたが、私達がイエスの贖いを完全に生活に用いるためには、 福音の第一原則に従わなければなりません。すなわち第一に、イエス・キリストを信じる信仰、第二に私達の罪を悔い改めること、第三に神から授けられた正当な神権の権能によってバプテスマを受けること、第四に(同じく正当な神権の権能を持つ神権者の)按手によって聖霊の賜物を受ける必要があります。そして最後に私達が死んでこの地上を去る日まで神の戒めに従う必要があるのです。

もし私達がこれらのことを行うなら、贖罪の益は、わたしたち個人の生活に及び、イエス・キリストと天父と永遠に住むためにその御許に帰ることができるのです。末日聖徒イエス・キリスト教会の教義では、私達は恵みによって救われると教えていますが、それはつまり私達が神の戒めに従い、罪を悔い改め、愛ある者となり、「わたしたちが清められて御子と同じようになれるよう」(モロナイ書7:48)私達の心を変えるためにイエスの愛ある影響を受けて、私達のできるすべての努力をした後にのみに救いを得られるのだとういことです。

ゲッセマネの園と十字架

イエス・キリストの贖いは、福音の教義の中心であり、世界史上最も重要かつ無私の行為です。

"Atonement"(贖い) という用語は、 at-one-ment、すなわち、引き離れていたものが和解或いは一致する行為を示しています。末日聖徒イエス・キリスト教会は、イエス・キリストの贖罪は、アダムとエバが善悪を知る禁断の木の実を食べ、この世にをもたらすことになったアダムの背き或いは堕落のゆえに必要となり(創世記2:9;3:1-24参照)、肉体から霊が引き離れされる肉体の死だけでなく、またすべての人々は完全で神聖な神からも切り離される霊の死を招いたという教義を教えています。

贖罪を通して、イエス・キリストはすべての人類の罪と苦痛のために、肉体的にも霊的にも苦しまれました。イエスは、生きとし生けるものが死んだ後、再びその肉体を受け、永遠に生きることを可能にしてくださったのです。従って贖罪は文字通り、すべての肉体が無条件に復活することを保証し、キリストに忠実な人が皆、永遠に神と再会できることを可能にします。

贖罪の霊的な贖いの力を個人の生活に取り入れるには、私達はイエス・キリストに対する信仰を育み、罪を悔い改め、バプテスマと聖霊の賜物をを受け、最後まで福音の原則に従うよう忍耐しなければなりません。私達が悔い改める時、主は私達の罪をお赦しになり、私達の心から罪悪感を取り除いてくださいます。イエス・キリストが私達の代わりに苦しんでくださった贖いの力によって、私達の罪は既に支払われたのです。残ることは私達が究極の贖いの犠牲を受け入れるか拒絶するかを自分で決めることです。もし贖いを受け入れることを拒むならば、私達は神の御前からいつまでたっても切り離された状態に留まります。ですから神は私達の罪を贖うことができません。しかし、もし私達が悔い改めて神に従順であるならば、私達の罪からの贖いが可能になり、神は贖いの効力を及ぼして下さるのです。

しばしばキリスト教徒(末日聖徒イエス・キリスト教会の会員を含め)は、贖罪について語る時、キリストの堪えられた肉体的苦痛の面を強調しがちです。つまり、救い主の頭に置かれた茨の冠、ローマ兵の残酷な鞭打ち、そして手足に打ち込まれた釘の恐ろしい痛みに注意を払うのです。確かにこれらは言い表しがたい苦痛に満ちた経験でしたし、贖罪の重要な一面ではありますが、キリストの贖いの行為にはさらに霊的な面も含まれていることに注目しなければなりません。

イエス・キリストが十字架に掛けられる前夜、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の使徒の頭とゲッセマネの園へ行かれました。そもそもゲッセマネとは「油絞り」と言う意味です。その場所では何世代にも亘って、明かりと生命の源として重要な資源であった貴重な油を抽出するために、巨大な石の重量をオリーブの実にかけて圧搾されるオリーブ油の製造が行われていました。これは世の光と命としての救い主の贖いの苦しみが、世の罪の破壊的な重荷の下で、イエスの体のあらゆる毛穴から血を滴らせたことを指しているのです。

ゲッセマネの園でイエスが悲しみと重荷にさいなまれ、悩み始められた時、イエスは使徒達に向かって次のように言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。」(マルコによる福音書14:34)。そしてイエスは「少し進んで行き、地にひれ伏」されました(同35)。それから救い主は究極の祈りを声を上げて父なる神に捧げられ、「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。」と言われました。数時間に亘って主はすべて心の内を祈りに注がれ、その苦痛のために、血が地面に滴り落ちたのでした。この間のある時点で神から送られた天のみ使いが主を強めるために訪れ、救い主がその贖いの犠牲を完了することができるよう助けを与えました。この痛ましい時の流れの中で、イエスはすべての人類の虚弱さと欠点をご自分に引き受けられ、御父と誓約を交わされて、すべてイエスの下に来てあらゆる罪深い、或いは否定的な特性を克服するなら、キリストのような完全な資質に取り替えてくださることを約束なさいました。こうして、キリストを信じてこの誓約を結ぶ人は、少しずつ段階を踏んで、キリストの恵みと憐れみを通して、御父と御子と本当に一つになることができるのです。そして、これらの人々はキリストにあって新しく生まれ変わった聖なる者として一つになることことができるのです。

贖罪の偉大な象徴の一つは、私達一人一人のために流されたイエス・キリストの血です。それは単なる石鹸のような人が作った洗浄剤で汚れを落とすと言った経過とは全く異なるものです。つまりイエス・キリストの血によって清められるということは、聖霊による清めの効果を象徴しているのです。こうして私達がキリストの血によって洗い清められる時、言い換えれば、私達が主のみたまに完全に満たされると、私達にはもはや悪を行う望みなどなくなり、つづけて善を行う望みを持つようになるのです(モーサヤ書5:2)。

救い主は、私達すべての神の子供達の中で、私達の為に贖罪を行うことのできる唯一のお方でした。またイエス・キリストは、救い主としてこの世にお生まれになる前に選ばれたお方でした。さらに肉における文字通り神の独り子、即ち天父から死を克服する力を受け継ぎ、人間マリアを母として死ぬ能力を受け継がれたお方です。イエスは完全な生涯を送られ、かつて生を受けた自らの行動に責任を持つことのできる人間の中で、唯一の罪無きお方でした。そうでなければ、イエスが終局的に苦しまれた贖いの苦痛をその身に引き受けようと試みる人は、誰でも死を回避することはできなかったはずです。

贖罪がなければ、私達死すべき人間は、死や罪を克服する方法がないために、暗闇と悲惨の中でサタンの力の定めの下に置かれた存在として、神の御前から死後永遠に断ち切られ、体の無い状態に留まります。

私達がさらにキリストの贖罪について学び、祈る時に、主のゲッセマネと十字架上での苦しみをより深く感謝することができるようになります。贖いの苦しみを事前にご存知であったキリストでさえ、自ら「恐れおののかれ」(マルコによる福音書14:33)、或いは畏敬の念に打たれました。

祈り終わって立ち上がられた後、主はペテロ、ヤコブ、ヨハネの所へ戻られました。その直後、裏切りの使徒イスカリオテのユダが、偽りの告発でイエスを逮捕した分遣ローマ兵と共に到着しました。その夜とこれに続く朝、救い主はローマ兵とその他が加えた過酷な肉体的、精神的虐待を堪え忍ばれ、幾つもの違法で不正な裁判に引き出されました。最終的に総督ピラトの面前で、イエスは不当にも神の冒涜者として十字架刑に処せられました。 その恐ろしい金曜日の朝のおよそ九時ごろから、その午後三時ごろまでの間、イエスは十字架上で激しい苦痛を受けられました。遂に自らの自由意志をもって死につかれ、イエスはその苦しみを全うされ、死者に福音を宣言するために霊として霊界に赴かれました。その後、イエスの弟子はイエスの体を十字架から下ろし、以前誰も葬られたことのない新しい墓にイエスを埋葬しました。イエスの遺体は(ユダヤ人の安息日が始まる)金曜日の日没から日曜日の朝まで安置されていました。やがてイエスの霊が霊界から戻り、栄光化され完全な不死不滅の体に再び結合しました。こうしてイエスは最初に死から復活した人となられ、復活によって死と罪から勝利を得られました。それ以来、キリストに従う者は、キリストが私達の死後再び神とキリストに忠実な神の子供達と永遠に住むことができるようにしてくださるとういう福音、または「良き音ずれ」を宣言しました。

復活されたお方として、キリストはゲッセマネに於いてのその苦痛についてジョセフ・スミスにさらにいくつかの詳細を次のように明らかにされました。「見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。しかしながら、父に栄光があるように。わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。」(教義と聖約19:16-19)

ゲッセマネにおける「苦い杯」の経験は、救い主に深遠な感動を与えました。贖罪のこの一面こそが、末日聖徒の聖典で強調されている点なのです。心と霊と体の苦痛をゲッセマネの園とカルバリの丘の両方で忍ばれ、これらの苦しみが無窮の犠牲を成すと同時に、イエスがこの苦しみを通して私達の罪の代価を払われたことによって、もし私達が忠実にイエスの模範と教えに従うことによってこの犠牲を受け入れるならば、私達は罪に宣告されることから救い出していただけるのです。従ってイエス・キリストの贖罪は、復活において私達の霊が体に戻って再び結合すると同様に、私達が救い主の教えに忠実に従うことによってキリストの贖罪を受け入れるならば、私達の神の御前に再び戻って共に住むことを可能にするのです。

さらに深くイエス・キリストの贖罪を理解した方は、以下の文献をお読みください。

  • ジェームズ・E・タルメージ著、「キリスト・イエス」[1]
  • 聖句ガイド131頁に掲載されている「贖罪」の項(末日聖徒標準聖典に含まれている)
  • Skinner, Andrew C. Gethsemane. Salt Lake City: Deseret Book, 2002.

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