肉体の死

出典: MormonWiki

ほとんどの人がを考える時、常に肉体が永遠の霊から離れることによって起こる肉体の死を指しています。新約聖書のヤコブ書2:26には「霊魂のないからだが死んだものである」と述べています。肉体が造られた地のちり、または構成要素に戻る一方、霊体は復活を待つために霊界へ行きます。モルモン書の預言者のヤコブは「わたしは間もなく墓に入らなければならないことを知った。」といって、肉体の死を「墓」と関連付けています。

言外の意味—死が本当に意味すること

多くの人々は死を悲劇として受け止めています。それは、しばしば死は、人の存在が無になることであるとか、少なくとも死んだ人と再び合うことはできないと信じているためです。しかしモルモンは、愛する人が亡くなったことを哀悼こそしますが、死に対して違った見方をしています。著名なモルモンの預言者の一人、ウィルフォード・ウッドラフ大管長は次のように述べました。

「あまりにも多くの人々が、死は終焉であり、それから後は皆無だと思っている。天の神が二、三十億の霊を造り、彼らに幕屋(肉体)を与え、地上に来て生活をするだけで、忘却のかなたに去っていくか、存在しなくなるということを賢明な人間なら考えることができるだろうか?考慮深い人ならそんな考えはもてあそばないと私は思う。そのような信条は、常識と真剣な思慮に反している。」

モルモンは愛する伴侶の死を悲しみながらも、死を以って失われた人が「進歩、前進、そして発展の行進するのだから、愛する人は前に進んで行った」という慰めを受けています。

モルモンにとって死とは、一つの段階から別の段階への移行を意味しています。つまり、前世から死すべき状態の現世に誕生し、これと同様、死ぬべき状態から不死不滅の状態へ移ることなのです。またモルモンは、死後は、試練と試しの場所である現在の状態よりもさらに良い状態にあることを信じており、特に人が何が義であるかを理解して、それに従って生き抜いた場合、死はその努力の報いに向かうことだと考えています。

「もし死すべき状態が完全な状態だと仮定するならば、死は挫折であるが、福音は死に悲劇はないことを教えている。悲劇は罪を犯すことのみに起こることだ。教義と聖約63:49には、“主にあって死ぬ者は幸いである。”と書かれている。」

モルモンのこのような死に対する見方を踏まえて考えると、死んでいく人々は、逆境と悲しみの世の中から離れ、さらに幸福な場所と状態に入っていくのですから、死んだ人のために悲嘆に暮れることはむしろ不可能です。モルモンにとって、死んだ人を悼むことは、ちょうど人が大学を卒業し、苦勉や試験や倹約の生活のストレスから解放されることに類似していると考えています。さらにモルモンは、この世を「去って行った」人たちとの関係は、この世の後も続くということを信じています。それは、家族はお互いに永遠に結び固められることができると信じているからです。また家族以外の他の人々との関係も継続すると信じています。


地上にもたらされた肉体の死

モルモンは、死が最初にこの世にもたらされたのは、アダムの堕落を通してだと信じています。(新約聖書の1コリント15:21-23に書かれているように「アダムにあってすべての人が死んでいるのとおなじように、キリストによってすべての人が生かされるのである。」。そして救い主の贖いを通して、死からの復活はもたらされます。)さらに、このイエス・キリストの恵みによって人は死ぬと復活するのですから、二度と死ぬことはありません。死は福音の計画の一部ですから、怖がったり恐れたりするべきではありません。

「さて、肉体の死と呼ばれる死がある。そして、キリストの死は将来この肉体の死の縄目を解き、すべての人がこの肉体の死からよみがえる。
霊と体は再び結合して完全な形になり、手足も関節も、ちょうど今のわたしたちのような、その本来の造りに回復される。そして、わたしたちは今持っている知識を保ったまま、神の御前に連れ出されて立ち、自分のすべての罪をはっきりと思い出す。
さて、この復活は、老いた人にも若い人にも、束縛された人にも、自由な人にも、男にも女にも、悪人にも義人にも、すべての人に与えられる。そして、髪の毛一筋さえも失われることはなく、すべてのものが今あるような、その完全な造りに、すなわち体に回復される。それから、自分の行いが善いか、それとも悪いか、行いに応じて裁かれるために、一つの永遠の神である御子なるキリストと御父なる神と聖なる御霊との法廷に連れ出され、罪の有無を問われる。」(アルマ書11:42-45)