最後の裁き

提供: MormonWiki

Jesus Christ Second Coming Mormon

聖典の数多くの聖文に、すべての人が神のみ前に呼び出されて、裁かれる時がくると教えられています:

  • また、死んでいた者が、大いなる者もちいさき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。(黙示 20:12)
  • 彼らはその行いに応じて裁かれ、すべての人は自分の行いに応じて、用意されている住まいにおいて自分の領域を受けるであろう。(教義と聖約76:111)
  • そこでわたしは、それは現世のことにも霊的なことにもかかわることを表わしていると言った。それは、兄たちが自分のなした行い、すなわち、試しの生涯において肉体をもってなした行いによって裁かれなければならない日が、必ず来るからである。 (1 ニーファイ15:32)
  • さて、この復活は、老いた人にも、束縛された人にも自由な人にも、男にも女にも、悪人にも義人にも、すべての人に与えられる。そして、髪の毛一筋さえも失われることはなく、すべてのものが今あるような、その完全な造りに、すなわち体に回復される。それから、自分の行いが善いか、それとも悪いか、行いに応じて裁かれるために、一つの永遠の神である御子なるキリストと御父なる神と聖なる御霊との法廷に連れ出され、罪の有無を問われる。(アルマ 11:44)
  • 父は、わたしが十字架に上げられるようにと、わたしを遣わされた。十字架に上げられた後で、わたしはすべての人をわたしのもとに引き寄せた。わたしは人々によって上げられたが、そのように人々は、父によって上げられてわたしの前に立ち、自分の行いが善いか悪いかによって、行いを裁かれるのである。
このために、わたしは上げられたのである。それで、父の力によってすべての人をわたしのもとに引き寄せ、彼らが各々の行いに応じて裁かれるようにするのである。
さて、悔い改めて、わたしの名によってバプテスマを受ける者はだれであろうと、満たされるであろう。そして、最後まで堪え忍ぶならば、見よ、わたしはその者を、わたしが立って世の人々を裁くその日に、わたしの父の御前で罪のない者としよう。
見よ、これまで書き記されてきた数々の書と、これから書き記される数々の書によって、この民は裁かれるであろう。これらの書によって彼らの行いが人々に知られるからである。
また見よ、すべてのことは父によって書き記されている。したがって、これから書き記される数々の書によって、世の人々は裁かれるであろう。(3 ニーファイ27:14-16, 25, 26)

末日聖徒イエス・キリスト教会の教義は、文字通り最後の裁きがあることを教えています。

最後の裁きとは、この最後の裁きの前にほかの裁きがある、またはあったために、これが最後であることが強調されて最後の裁きと呼ばれているのです。この世以前に神の霊の子らは(救いの計画参照)裁きを受け、地上に来て死すべき状態を経験する資格があるとされました。教会員がバプテスマのような儀式を受ける準備ができたときには、そのふさわしさが判別されます。私たちは死んだ後肉体と霊が離れ、霊は一つの裁きを受けて、霊のパラダイスまたは霊の獄(ひとや)へ送られます。しかし、これは最後の裁きを受けるまでの一時的な場所なのです。

どのようにして裁かれるのでしょうか?

末日聖徒の教義では、人は次の3つの異なった記録によって裁かれると教えています。それは地上での記録、命の書つまり天で記された記録、そして自分自身です。教会が発行しているレッスンテキスト「福音の原則」には、人はどのように自分の生涯の記録をつけるかが説明されています:

私たちを裁くのに使われるもう一つの記録があります。使徒パウロは私たち自身が自分の一生の最も完璧な記録だと教えています。(ローマ2:15; 2 コリント3:1-3参照) 私たちの肉体や心に蓄えられているすべてが、私たちの行いの完全な歴史なのです。ジョン・テイラー大管長は次のような真理を教えました、[人は] 自分の物語を話し、そして自分に不利な証言もするのです.... 自分の心のノートに自分自身が書き記した記録(それはごまかすことができない記録です)が、裁きの日に神と天使、そして判士となる者たちの前で開かれるのです。」(ダニエル・H・ラドロー編「Latter-day Prophets Spe(末日の預言者の口から)」  pp. 56-57).

さらに、すべての裁きは公平であると心安らかにすることができます。なぜなら人間の裁判官や陪審員が裁くのではなくて、全能である判士と私たちの生涯という完璧な記録によって裁かれるからなのです。サムエル記上で主は、預言者にこのように勧告しています:「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」 主はその子らを彼らの行いだけではなく、思いや意図でも判断されるのです。ヘブル書4:12には、主は「心の思いと志(こころざし)とを見分けることができる」と書かれていて、主はすべての人が必ず公平な裁きを受けるようにしてくださるのです。.

モルモンの教義では、これまで地上に生を受けた莫大な数の人々の中には、キリストや救いの計画について全く知らなかった人や殆ど知らなかった人々がいることへの配慮がなされています。ですからその人が得た知識によって裁きを受けるのです。

  • 見よ、あの霊に従おうとする者には、災いが宣言される。もしも悪霊に従うことを望んで、罪の中にとどまったまま死ぬならば、自分自身に罰の定めを招く。なぜならその人は、知っていながら神の律法に背き、その報いとして永遠の罰を受けるからである。(モーサヤ2:33)
  • それゆえ、イスラエルの聖者は律法を授けられた。律法がないところには罰がない。また罰のないところには罪の宣告もない。そして、罪の宣告のないところで、イスラエルの聖者の憐れみが人々に対してその役割を主張するのはなぜかといえば、それは贖罪のゆえである。彼らはイスラエルの聖者の力によって救われているからである。
その贖罪は、律法を与えられたことのないすべての人にとっても、神の正義の要求を満たすので、これらの人々は、あの恐ろしい怪物、すなわち死と地獄と悪魔と、無窮の苦痛である火と硫黄の池から救われて、彼らに息をお与えになったイスラエルの聖者である神のみもとに連れ戻されるのである。(2 ニーファイ9:25, 26)

死すべき状態にあるときに贖いの知識を得ないまま死ぬ人々は、霊界で福音を聞く機会が与えられます:

選ばれた使者たちは、主の恵みの日を告げ知らせ、束縛されている囚われ人、すなわち、自分の罪を悔い改めて福音を受け入れるすべての人に自由を宣言するために出て行った。
このようにして、真理を知らずに罪のうちに死んだ者や、預言者たちを拒んで背きのうちに死んだ者に、福音が宣べ伝えられた。
これらの者は、神を信じる信仰、罪の悔い改め、罪の赦しのための身代わりのバプテスマ、按手による聖霊の賜物について教えを受けた。
またこのほかに、肉においては人間として裁きを受けるが、霊においては神のように生きるための資格を得るうえで知っておく必要のある、福音のすべての原則が教えられた。(教義と聖約138:31-34)
また、獄にとどめられた人々の霊であって、肉において人間として裁きを受けるために、御子が訪れて、福音を宣べ伝えられた者である。
また、これらは、肉においてはイエスの証を受け入れなかったが、後にそれを受け入れた者である。 (教義と聖約76:73, 74)

誰が私たちを裁くのですか?

ヨハネ5:22には、天の御父 は裁きの責任を御子イエス・キリストに委任されたことが説明されています。

御父ではなく、御子が地上のすべての人々を裁きますが、その裁きは御父の御心に従ってなされるので、公正で. . . .
「イエスは聖なる人の御子であるために、裁きを下す力、大いなる終わりの日に判士となる力、そしてすべての人を不死不滅の状態で裁きの場に呼び出す力を与えられています。」 (ブルース・R・マッコンキー「Doctrinal New Testament Commentary(新約聖書の教義の註釈)」、1:190, 192, 195).

キリストはまた人を裁くときに他の人の助けを求めます。救い主に召された最初の十二使徒は、マタイ19:28にあるように、イスラエルの十二の部族を裁きます:

イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。

ニーファイの民の中からキリストが召した十二使徒は、ニーファイ人レーマン人を裁きます。ジョセフ・スミスは時の最後の神権時代に生きている人々を裁く鍵を持っています。

裁きの目的は何でしょうか?

裁きの目的は人を栄光の王国に割り当てることです。「私たちは次の4つの場所に送られます:日の栄えの王国(最高の栄光)、月の栄えの王国(2番目の栄光)、星の栄えの王国(一番低い栄光)、そして外の暗闇(悪魔の王国—栄光の階級ではない)」。 (「福音の原則」) これは最後で決定的な裁きですが、公正で慈悲深いものです。一人一人が自分がした選択に応じて幸福と栄光を得るのです。

さらに詳しい情報は福音の原則: 最後の裁き」 または 「福音の教義」、第 31-37課を参照してください。