ルーシー・マック・スミス
出典: MormonWiki
ルーシー・マック・スミスは、ジョセフ・スミスの母親です。彼女は、その著名な回顧録「ジョセフ・スミスの伝記的スケッチ:預言者とその代々の先祖」で知られています。ルーシ・マック・スミスは、ジョセフ・スミスの生涯における、福音回復運動の中では偉大で重要な指導者の一人です。[1]
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人生早期
ルーシー・マックは、1775年7月8日、ニューハンプシャー州ギルサムで、ソロモン・マックとリディア・ゲーツ・マックの8人の子供の末として生まれました。家族は、宗教心が深く、彼女の兄、ジェイソンは、独自の宗教団体を設立し、また二人の姉妹も神によって彼女達の罪が許されたという霊的な経験を持ち、他の人々にも悔い改めを説いています。またルーシーの父親は、重病を何度も経験した末、独自の宗教的確信を経験しています。また母親も極めて霊的な人柄で、家族の倫理的規範でした。(原書の抜粋を参照)。ルーシー・マックは、社会の変遷期に生まれました。当時、母親たちの立場がさらに高まり、家庭で子供たちの世話と教育にいそしみ、子供たちの知的、倫理的及び宗教観念の発達に注意を払う事に重きを置くようになりました。それと同時に、社会環境はさらに多様化し、勉学ついては共同社会の決定に従うよりも、さらに個人的にそれぞれの家庭の選択が優先できるようになりました。また、知的及び宗教分野の専門家らはいずれも、社会の倫理的方針に関して女性の影響と力の大きさを賞揚するようになりました。ルーシーの成長期には、こうした社会背景があったのです。
ルーシーがジョセフ・スミス・シニアと結婚したのは1796年でした。彼女は、兄のスティーブンとその仕事の共同経営者から、結婚祝いとして相当な額の持参金を受け、両親の優れた倫理的模範としっかりした土台のある宗教的信仰を持って結婚生活に入りました。こうして彼女の力と霊性は、モルモニズムと呼ばれる宗教運動にはうってつけの女性指導者には必要な特質を備えていました。
アルビンとハイラムは、そのような家庭の中に生を受けました。1802年、夫のジョセフ・スミス・シニアは、バーモント州タンブリッジに店を開きました。1803年に娘のソフロニアが生まれました。結婚6年目に、ルーシーは大病を患い、死は回避できないものと思われました。同時に彼女の姉も同じ病気にかかり、医者は「不治の結核だ」と宣言しました。その時、ルーシーは、まだ死と神の裁きを受ける準備ができていないと感じ取りました。当時のことを次のように回顧しています。
- 「私はキリストの道を知らなかったし、その上、自分自身と救い主の間には、あえて越えたくない暗く孤独な谷間が横たわっているように思えた。」(プロクター版、47)
死に直面して、天の示現を目の当たりにし、ルーシーは、もし神が私を夫と子供のために生かしてくださるならば、「それが聖書の中のものであろうと、(新たに)見出されたものであろうと、たとえ祈りと信仰によって天から得られるべきものであろうと、神に正しく仕えさせる宗教に専念する」という聖約を神とかわしました(プロクター版,48)。彼女は、キリストの声がその聖約を認め、彼女にキリストを信じるよう励ますのを聞きました。その瞬間から、彼女の体が快復し始めました。体力がつくと、彼女は宗教的な教えを捜し求め始めました。しかし、信心深いことで有名な牧師の説教を聴いたときでさえ、何度も落胆を繰り返したものでした。真理を捜し求め始めて数年後、ルーシーはバプテスマを受けたならば、霊的な平安を受けやすいかも知れないと思いました。そして特に教会に加入しなくても彼女にバプテスマを施してくれる牧師を見つけました。このような状態で10年以上も求道生活が続きました。
ルーシーの夫のジョセフ・スミス・シニアは、不正直なビジネスマンに悪巧みにかかり、膨大な負債を抱えました。一連の財政困難を味わい、タンブリッジに所有していた農場も失い、何度も移動しなければなりませんでした。タンブリッジからローヤルトン、それからウィンザー郡のシャロンに移り住みました。ジョセフ・スミス・ジュニアが生まれたのは、1805年12月23日このバーモント州シャロンに居る時でした。スミス家がタンブリッジに戻ったのは、サミュエル・ハリソン・スミスが生まれた1808年のことでした。その後、ローヤルトンに移り、1810年にエフライムが生まれましたが、幼少でこの世を去りました。ウィリアムが生まれるまでには、夫は霊的な関心が高まっていました。財政的苦難にも関わらず、ジョセフ・スミス・シニアの霊性は成長していきました。彼は7つの啓示を受けたと記録されています。教派間に改宗競争に加わるより、示現を受けた経験によって強められた考えの結果、むしろ古代のキリストの教会を回復することを望むようになりました。
1811年、スミス家族はバーモント州ローヤルトンからニューハンプシャー州レバノンに移りました。そこに落ち着いてから、ルーシーは、経済的に立ち直ったことを感じました。店の仕事を脇にして、子供の教育に専念し、ようやいく上の子供たちも学校に入学しました。1812年、二番目の娘のキャサリンが生まれました。家族は、1813年まで仕事に成功していました。ところが、その年、地域に腸チフスが流行した時、子供たちがその病に倒れました。ソフロニアが中でも重態でしたが、幸い奇跡的に治癒しました。やがてジョセフが腸チフスにかかり、肩と足に菌が入り、骨の手術をしなければなりませんでした。この時、手術を担当したのは、ネーサン・スミス博士という当時の米国では極めて著名な医者で、一般的に行なわれていた切断手術せずに、悪化した部分を削って処置するという方法を行なうことができる唯一の医者でした。この時の様子を回顧録にしるした内容は、後年スミス博士の伝記を書いた人々が驚くばかりその内容が正確にかかれていると述べました。その後、回復には何ヶ月もかかったものの、ネーサン・スミス博士のおかげでジョセフは、足を切断せずに住んだばかりか、後年何の後遺症もなく全治することができました。
その後、家族はバーモント州ノーウィックに移り、借地農夫として働きましたが、三年連続で収穫は失敗に終わりました。ここに住んでいた1816年、ドンカルロスが生まれました。家族は再びニューヨーク州パルマイラに移りましたが、その時はまず夫が先に移住して場所を整え、ある人にルーシーと子供たちを送ってくれるようにと頼みました。ところが、その人は良心的な人ではなく、引越しの費用は取りたてておきながら、8人の子供たちを乗せて、時には雪の中を旅し、まだ足の完治していないジョセフを歩かせたり、相当な苦労をしてパルマイラに到着しました。ルーシーのポケットにはなんと2セントとしかなかったと記録されています。
キリストの福音の回復にジョセフ・スミスが選ばれる
スミス家族が地元の教会で求道生活を始めたのは、このパルマイラに住んでいる時でした。そこでジョセフ・スミスは、最初の示現と呼ばれる経験をしました。
1820年、ジョセフ・スミスが14歳のある日、彼は、どの教会が正しい主の教会であるのかを尋ねる為、森に入って、祈りました。祈り終わって森から出てきた後の生活に、今までの困難などとは比較できないほどの艱難が押し寄せてきました。それは信頼していた牧師に祈りを通して示現を受けたことを話した瞬間から、彼と家族に対する迫害が止むことなく加えられたからでした。
1821年、ルーシー・マック・スミスは、末の子供ルーシーを産みました。1822年、スミス家は、適切な家を建てる準備をしました。ジョセフは迫害にも関わらず、家族と一緒に働きました。1823年9月、ジョセフは天使の訪れを受けました。モロナイと名乗るこの天使は、ジョセフに、彼の家の近くの丘に古代の預言者が記録した金版が隠されており、将来ジョセフはその版を取り出して、翻訳しなければならないと伝えました。
家族全員が、ジョセフが語るこの古代の記録 モルモン書の人物の話や事柄、福音の回復を心から信じました。ルーシーは次のように述べています。
- 「夜の一家団欒の会話の中で、ジョセフはもっとも興味深い詳しい説明をしてくれた。彼は、この大陸の古代の人々について述べ、その人たちの衣服、旅の仕方、乗った動物、建設した町々、詳細にわたる建物の構造、戦争の方法、宗教礼拝など、まるで彼らと生活しているかのように明確に説明した。」(プロクター著、112)
イエス・キリストの回復された福音についてジョセフが家族に教えたこともルーシーは記録しています。
- 「これは私たちにとって最も喜ばしいことで、私たちの家に最も麗しい和合と幸福を満たしてくれ、家族の中に静穏な落ち着きをもたらしてくれた。」
心を配る母親、指導者として
イエス・キリストの福音の回復は、家族が最も熱心に追及しようとしていたものでした。ジョセフ自身の手でそれができるかどうかの懸念を隠しきれないまま、モルモニズムに新しく改宗した人々の信仰についてルーシーは母親としての心配を表しています。彼女は、感情的にも物質的に必要な物のいずれに対しても慈善を施し、食べ物を持たずにジョセフの下に集まってきた新しい改宗者に食事を出してあげたり、住む家を見つけてあげたり、自分の子供たちのみならず、他の母親の子供たちの面倒もしてあげました。ルーシーとスミス家一同は、新しい教会とジョセフの携わる神のみ業のために、自分たちの評判や安全も犠牲にしました。やがてジョセフが聖徒たちにオハイオ州カートランドに集まるように伝えると、ルーシーは、移住するためにほとんど準備ができていない人や、最も文句を言う人たちの世話をしました。ニューヨーク州ウォーターローからカートランドへの旅の間、ルーシーは、耳を傾ける人には誰にでも福音を分かち合いました。また川の渡し舟や雨嵐の間旅が中断したときの宿泊の部屋を手配しました。ある時には、川が氷結したことがあり、ルーシーは乗客一同に心を合わせて神に祈りを捧げるよう求めました。すると奇跡的に氷が割れて渡し舟が通れるだけの幅の隙間ができました。
ルーシーと家族達は、あらゆる聖徒の集合地へ移動を繰り返し、聖徒の味わったすべての迫害、追放、艱難にさらされました。ミズーリ州では、ファーウェストへ追放された聖徒達を助けました。これらの苦しみは伝記の中に書き残されており、その記述から、脅迫や抑圧にも負けずに神のみ業の前進に貢献した夫と息子達のことを常に心配していたことがわかります。ミズーリ州での迫害とイリノイ州へ移住のために健康を損なった夫は、イリノイ州ノーブーで亡くなりました。またハイラム・スミスとジョセフ・スミスは二人共、1844年に殉教してしまいます。彼らの殉教の後、遺体はノーブーに帰還しました。その時の様子をルーシーは次のように書きとめています。
- 「遺体が洗われ埋葬着に換えられた後、私たちは彼らを見ることを許された。長い間神経を張り詰めさせ、私の霊のあらん限りのエネルギーをかき集め、神に私を強めてくださるよう祈ったが、(遺体の安置されている)部屋に入り、殺された私の息子達が横たわっているのを一旦目の当たりにし、家族のすすり泣きと嗚咽を聞き、息子達の妻や子供や兄弟姉妹の唇から叫ばれる『父よ、夫よ、兄弟よ!』という声を聞くと、もうそれは十分過ぎた。私は打ち沈み、心の苦しみの底から主に叫んだ。『私の神よ、神よ、なぜこの家族を見捨てられたのですか。』すると、『彼らが安息を得られるように、私の元に引き寄せたのだ。』と言う一つの声がこれに答えるのを聞いた。」
殉教後
殉教後の混乱の中で、ルーシーは、十二使徒定員会とブリガム・ヤングの持つ権能を支持しました。彼女は、聖霊によって導かれる組織された教会への継続性のシンボルとなりました。後にルーシーは入植地が確立され次第、ブリガム・ヤングに導かれて移住した聖徒と共にユタ準州へ移るつもりで、それまでノーブーでエマ・スミスと共に住みました。1856年5月14日、ルーシーはノーブーで一生を閉じました。ルーシーは11人の子供の母親となり、その内7人の子供はルーシーに先立たれています。

