ヤレド人
出典: MormonWiki
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モルモン書のヤレド人
ヤレド人は、モルモン書の中にその歴史が記録されている民族です。ヤレド人は、ヤレドとその兄弟とその友人達の義しい人々の一団で構成されていました。彼らは、バベルの塔の時代、神によってアメリカ大陸に導かれました。彼らの歴史は、モルモン書の中の「エテル書」に記録されています。下記は、ヤレド人の歴史の簡単な年代表です。この文化は紀元前2700年から紀元前600年頃に存在しました。年代が抜けている箇所は、モルモン書にその詳細の記述がなかったためです。
概略の年代表
- 2700 BC ヤレドとその友人とその家族がアメリカ大陸に移住
- 2630 BC モロンの町が建設される
- 2430 BCモロンの人口は数々の戦争で殺され、30人が生き残る
- 2290 BC 数々の町が築かれる
- 2160 BC 飢饉により人口が減少する
- 1070 BC 内乱で王国が分裂する
- 1010 BC 戦争、飢饉、疫病が起こる
- 740 BC 内乱
- ~600 BC 最後の戦争、エテルとコリアントンのみが生き残る
ヤレド人の生き残り
ヤレド人最後の内乱で、たった二人だけが生き残ったことが記録されています。:預言者エテルと軍指揮官コリアンタマーです。エテルは、彼の民の最後の滅亡の歴史を書きました。彼自身の最後は記録には、記述されていません。
ヤレド人の内乱の最後の戦いの前に、エテルはコリアンタマーの下へ行き、彼と彼の民が神の前に悔い改めない限り、コリアンタマーはその民の最後を目撃する事になると預言しました。またエテルは、主が約束の地に新しい住民を導かれ、彼らによって自分が埋葬されることになると告げました。傷を負いながらもコリアンタマーは、最後の戦争に生き残りました。オムナイ書には、その新しい民がゼラヘムラの民であることが書かれています(この民は、ゼデキヤ王の唯一の生き残りの息子ミュレクの民でミュレク人で、後、ニーファイ人に合流しました)。ゼラヘムラの民がコリアンタマーを見つけ、彼は9ヶ月彼らと共に暮らしたと記録されています(オムナイ1:21)。
ニーファイ人はやがてエテルの書いたヤレド人の記録を発見し、これらの記録はニーファイ人の記録と共に保存されました。後に最後のニーファイ人の預言者モロナイが、ヤレド人の記録を抄録し自らが書いた記録に含めました。およそ1400年後に、預言者モロナイは天使として、ジョセフ・スミスを訪れ、これらの記録をゆだねられ、翻訳しました。現在この記録はモルモン書として知られています。
ヤレド文化とオルメック文化
考古学者によるとヤレド文化とオルメック文化には、幾つかの共通点があります。:
紀元前訳2000年まで、ヤレド人は生存するためにかなりの苦労をしました。考古学上の発見によると、オルメック文化の人々は、この時点までは素朴な生活をしていました。
紀元前2000年から1500年まで、ヤレド人は、顕著な発達を遂げ、都市を建設し、モロンという高地にある首都を築きました。オアクサァカの谷のある場所に類似した特色が存在し、考古学上、この時代に相当するのあるつぼ、農耕地、定住地が発見されています。
紀元前1500年頃、ヤレド人はリブという都市を建設しました。オルメック文明の発掘で、サンロレンゾ付近にヤレド文化と同じ社会的組織を持つ同時代の都市が発見され、モルモン書の出来事と一致する建造物となっています。
紀元前1070年、モルモン書にはコムの次代に内乱があったと記録されています。この出来事は、サンロレンゾの都市が破壊されたとする考古学者の指摘とまったく一致します。 これに続く時代のヤレド文化は、退廃的で邪悪なものでした。この同時代のオルメック文化は、富と富裕な生活に焦点を当てていました。また巨大な記念碑を建造する為に多くの奴隷を使っていました。
紀元前600年頃までには、ヤレド文化は、最後の戦いで滅亡に向かっていました。考古学者は、オルメック文化の滅亡は紀元前601年だとしています。
ヤレド人最後の戦いは、丘の上で展開されたと記録に述べられています。オムレックはセロ・ビジアで、モルモン書に書かれている場所の記述と一致しています。
