モルモンの歴史
出典: MormonWiki
イエス・キリスト教会は、1830年4月6日にニューヨーク州フェイエットで6人の会員で組織されました(教会の正式名称は、末日聖徒イエス・キリスト教会で1838年啓示によって与えられました)。書記の教会員は、そのほとんどが預言者ジョセフ・スミスの家族友人でした。ニューヨーク州では、啓示や奇跡はないとするの伝統的キリスト教概念を覆す事になったジョセフ・スミスの「最初の示現」を根拠に宗教的迫害が起こり、オハイオ州カートランドでは、イエス・キリストご自身の福音と教会が回復されたことを受け入れた改宗者の急増によって、地元住民からの政治的決定権が奪われることを懸念した政治的動機による迫害も加わり、教会内の背教がこれに拍車をかけました。教会に対する敵対心を抱く人々によって教義の歪曲喧伝が拡大化し、教会は先ずミズーリ州西部に移動し、次にイリノイ州、最終的には米国の大荒野を横断してロッキー山脈のソルトレークへの移動を繰り返しました。しかし宗教界から壊滅させようとするこれらの反対勢力は、いずれも無駄に終わり、19世紀の終わりと共に公の迫害が終局を向かえ、やがて教会はその成長と繁栄を遂げ、今日に至っています。200年近い教会の歴史でモルモニズムは、米国から全世界を覆う国際的教会にまで発展を遂げ、現在では米国外に住む教会員が米国内の教会員数を上回っています。広範な歴史の出来事を十分な形で要約することは難しいことですが、以下の説明が1820年から現在に至るまでの大まかなモルモンの歴史の概要を述べています。各項目でリンクされた記事がさらに詳しい概略を述べていますので参照ください。
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ニューヨーク時代
1820年、 ジョセフ・スミスは、キリスト教派間の矛盾と争いに疑問を抱き、神権に神に問い尋ねる事にしました。その祈りの結果、ジョセフは 父なる神とその御子イエス・キリストとの訪れを受けました。この出来事は最初の示現と呼ばれています。その3年後、ジョセフ・スミスが17歳の時に天使モロナイの訪れを受け、ジョセフの家からそう遠くない丘に古代アメリカの預言者によって記録されたイエス・キリストの教えが書かれている金版が埋められていることを告げました。ジョセフはようやく1827年9月22日にこの金版を手に入れることができ、これを神の賜物と力によって翻訳し、古代の記録を抄録した預言者の名前をつけモルモン書として出版しました。その後ジョセフ・スミスは、神の権能であるアロン神権とメルキゼデク神権を受け、1830年4月6日にキリストの教会を設立しました。宣教師は、このイエス・キリストの回復された福音を伝えはじめました。しかし古代の使徒が亡くなってからは天からの啓示や奇跡は最早ないこと、神と御子と聖霊の三位一体論などキリスト教の伝統的概念を信じていた当時の多くの人々は、ジョセフ・スミスの最初の示現を理由に教会を迫害し始めました。
オハイオ時代
教会に改宗した人々は、迫害を避けてオハイオ州カートランドへ移りました。ジョセフ・スミスはカートランドで多くの啓示を受けました。カートランドでは、最初の神殿が建設されました。一方この時期、教会内外からの反対勢力との摩擦が高まりる中、英国やカナダでの伝道が成功を修め、多数の改宗者が教会に加わりました。またカートランドで、古代エジプトのミイラや記録が展示されているとき、ジョセフ・スミスは、あるパピルスを購入して翻訳し、アブラハム書として出版しました。またジョセフ・スミスが受けた多くの啓示をまとめた教義と聖約もこの時期出版されています。同時にキリスト教会の組織上の啓示を通して、古代のキリストの教会と同じく十二使徒定員会が組織されました。やがて多くのモルモンはシオンを築くことを望み、ミズーリ州へ移動し始めます。しかしここでも迫害は続き、シオンの陣営と呼ばれる神権者によって構成された一行は、ミズーリ州で迫害に遭っているモルモンを援助するために出発しました。ミズーリへの移動は遂に1838年に完結しましたが、迫害の激化は始まったばかりでした。
ミズーリ時代
モルモンは1831年、オハイオ州からミズーリ州ジャクソン郡に定住し始めました。1833年までには、暴徒の手によってあらゆる迫害と攻撃を受けて追われました。1836年には同州クレイ郡に暫時移住し、コールドウェル郡とデービス郡に定住しましたが、暴徒の迫害が激化する中、緊張と摩擦が高まりました。中にはこれらの暴徒の嫌がらせと迫害に反撃するモルモンもありました。やがて州軍の介入する事態に発展し、一般にモルモン戦争と呼ばれる逼迫した状況に突入します。その結果、裁判のないままジョセフ・スミスは数か月を監獄で過ごすことを余儀なくされました。一方、モルモン側が暴動を起こしたという偽りの報告をだけに依存したミズーリ州知事は状態の悪化する中、「撲滅令」(追放令)を発しました。多くのモルモンがハウンズミルで虐殺されました。殺されなかったモルモンたちは家を焼かれ、財産の一切を失いました。こうしてモルモンは、ブリガム・ヤングの指導の下に、イリノイ州へと逃れました。
ノーブーとジョセフ・スミスの殉教
モルモンはイリノイ州に新しい町を築き、ノーブーと名づけました。数年内にノーブーはシカゴと方を並べる規模に発展しました。モルモンの宣教師は、ヨーロッパ全域で宣教活動を始め、特に英国とスカンジナビアでは顕著な成功を修めています。一方、ノーブーでは神殿の建設が始まる中、迫害はミズーリとイリノイの両州で継続されていました。ジョセフ・スミスはこのため彼の命を狙う敵から頻繁に隠れることを余儀なくされました。ノーブーでジョセフ・スミスは重要な啓示を受けています。主な啓示には、一夫多妻制、死者のためのバプテスマ、日の栄えの結婚、救いの計画などです。しかし、迫害は過激となり、遂にジョセフ・スミスと兄ハイラム・スミスは1844年6月、カーセージの牢獄で暗殺されました。ジョセフの死後、十二使徒定員会が教会を導きました。1846年にノーブー神殿は完成しましたが、同年聖徒達はノーブーから追放されました。
西部への移住
イリノイ州から追放された後、モルモンはアイオワ州に一時散乱し定住しましたが、安全な土地を求めて西部へ出発し、やがて米国開拓史上主要な経路となったモルモン・トレイル(モルモン街道)を作り、ユタへと向かいました。またモルモン大隊は、米国対メキシコの戦争に参戦する為、行進しカリフォルニアを探検しました。モルモンの開拓者は大荒野を横断し、ユタ、ネバダ、コロラド、ワイオミング、アリゾナ及びアイダホに町々を築きました。さらにメキシコ北部やカナダ南部にも及んでいます。ロッキー山脈地域で教会は平和な10年間を送りました。
ユタ戦争
政治的圧力とユタの準州官吏らの批判に影響され、米国大統領ジェームズ・ブキャナンは、架空の謀反を鎮圧する名目でユタに司令官ジョンストン大佐(後に将軍)を派遣しました。ブリガム・ヤング知事は、正式な調査報告を受けないまま官職を免職に追い込まれました。連邦軍の侵略を遅らせる為の手が尽くされましたが、結局、軍隊は謀反は根拠のない事実である事に気づき、講和を樹立しました。一方、不幸にもこの侵略行軍の一件で、恐怖を覚え緊迫した幾人かのモルモンは、マウンテンメドーと呼ばれる場所で、カリフォルニアに向かう移民団とインディアンの摩擦の状況下、摩擦が激化し、殺害事件が発生しました。
戦後の迫害
モルモンは、米国市民戦争の間は、何の干渉も受けず、全世界への伝道活動を続け、メキシコ、南米、アジアの一部、ヨーロッパへ宣教師が派遣されました。市民戦争後、米国議会は、一夫多妻制を違法とする法律を通過させ、モルモン逮捕や投票権の禁止、官職着任の禁止、所有地の保有禁止などの結果を招きました。モルモンを就職させばうという誓約が交わされたりもし、一部のモルモンはこれらの事態を回避する為にメキシコやカナダへ逃れました。また教会指導者も隠遁生活を強いられるという状態が続きました。遂に、主からの啓示を受け、教会は多妻結婚を廃棄し、一夫多妻制を実践する教会員は教会から破門されるという方針が打ち出されました。そしてグロバー・クリーブランド大統領は他の実践者を方面しました。こうして教会は再び発展を遂げ、何千人もの教会員がヨーロッパからユタ州へと移住し始めました。
安定と成長
次の10年間は比較的平穏でした。迫害によって起こった負債の完済には時間がかかったものの、教会は土地所有ができるようになりました。また官職に就くにはまだ奮闘する必要がありました。例えば十二使徒のリード・スムートは、米国上院議員に選出するために2年を要しました。この時期、ジョセフ・F・スミス大管長は、死者の救いに関する重要な啓示を受けました。また教会歴史100年祭を記念して、教会は教会歴史上重要な場所を購入し始めました。また大恐慌の間、教会福祉プログラムが開発され、不景気の影響を受けた教会員の援助に役立ちました。この時以降、ほとんどのモルモンは、ユタへ移住するよりも、むしろ自国に留まるようになりました。伝道活動は、南米、太平洋諸島に及び、何千人という人々が教会に加わりました。また神殿もハワイ、カナダ、ヨーロッパ、ニュージーランドに建設されました。第二次世界大戦中は、モルモンは国によって敵と見方に分かれたり、鉄のカーテンとして知られるソビエト連邦共和国内に残された会員もいました。
世界的な発展
第二次世界大戦に続き、教会は急激な成長を見ました。米国、ヨーロッパ、中米、南米、太平洋諸島の広範にわたり建設されました。ソビエトの統治下で東ドイツにも神殿が建てられました。デビッド・O・マッケイ大管長は、この時期最も広範囲にわたって世界各国を訪れた大管長でした。教会は福祉、人道支援プログラムの面でも拡張され大戦後のヨーロッパや日本の再建にも重要な援助の手を差し伸べました。また伝道活動の面では、宣教師訓練センターが確立され、多数の言語の習得に貢献しました。デビッド・O・マッケイ大管長は、すべての会員は宣教師であるという標語のもとに、これを受け継いだスペンサー・W・キンボール大管長は、すべての男性会員は宣教師として奉仕するようにという啓示を受けました。間もなく宣教師の数は5万人以上に増加しました。この教会の成長に伴い、コリレーションプログラムが導入され、教会内の政体とプログラムを一貫させ、無駄や重複を省くように運営されました。またブラジルやアフリカにおける教会の成長は、黒人会員への神権授与制限に関する祈りを促し、1978年にキンボール大管長は、神からの啓示を受け、すべての教会の標準にふさわしい男性会員が神権を受けることができるようになりました。間もなく教会はブラジルとアフリカで急激な発展を見ました。1980年代に教会は、モルモン書の翻訳に努力を集中させ、何十カ国にも及ぶ言語に翻訳され、まさに主のみ言葉が世界に「洪水のごとくに地を満たす」という預言に答えるようになりました。
現代の発展
1990年代初期から、教会員数は全世界で1200万人以上に達し、21世紀に入ってからは1300万人を超え、この成長の一部として、目覚しく発展した国々には、南米諸国、アフリカ諸国、また前ソビエト連邦諸国、特にロシアでの発展を見ました。1990年後半には、米国外に住む教会員の数が、米国内に住む教会員の数をしのぎ、この成長のために一年のうちに何百という教会堂が必要となりました。1995年にゴードン・B・ヒンクレー大管長が世界的発展を推し進め、その訪問国の数と訪問先を合計した距離においては、先のデビッド・O・マッケイ大管長を上回りました。またヒンクレー大管長の指導の下に、神の計画における家族の目的についての家族:世界への宣言、イエス・キリストの使命についての預言者と使徒の証を述べた生けるキリストが教会の公式声明として宣言されました。またヒンクレー大管長は、2000年までにさらに多くの神殿を建設するように啓示を受け、世界中で現在124の神殿が運営されており、この他にも10以上の神殿の建設が発表され剣道を待っています。これらの神殿には、香港、台湾、日本、韓国、フィリピンなどのアジア諸国、アフリカ、南北アメリカ大陸やヨーロッパにも多くの神殿が建設されました。なかでも2005年には一度は失われたノーブー神殿が再建され、ヒンクレー大管長の手で封建されました。また同年、モルモンの開拓者のユタへの開拓の旅を記念する150年祭が全世界で催されると同時に、ジョセフ・スミス生誕200年記念も祝われました。この生誕記念にふさわしく、教会外でもジョセフ・スミスの宗教上の功績を米国史上顕著なものとして認識する米国議会図書館が主催した学術研究発表が行われたり、PBS(公共放送局)による特別番組が放映されました。
External Links
- 教会歴史上の奇跡的出来事Miraculous Events in Church History
- 教会公式ジョセフ・スミスのサイト[ http://josephsmith.net/josephsmith/v/index.jsp?]vgnextoid=041579179acbff00VgnVCM1000001f5e340aRCRD&locale=0]
- 教会公式ジョセフ・スミス関係サイトのリスト[1]
- 米国議会図書館ジョセフ・スミスのシンポジウム[2]
