ブリガム・ヤング

出典: MormonWiki

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ブリガム・ヤング--アメリカのモーセ

ブリガム・ヤング末日聖徒イエス・キリスト教会の第二代大管長で、モルモンの歴史の中だけでなく、アメリカ歴史でも最も影響のあった著名な歴史的人物として知られています。ブリガム・ヤングは、米国西部へ「モルモンの大移民」を指導した者として「アメリカのモーセ」と呼ばれました。また主は教義と聖約136章でブリガム・ヤングに与えられた啓示の中で、西部へ移民するモルモンの開拓者を「イスラエルの陣営」と呼び、ブリガム・ヤングをその指導者のモーセになぞらえています。

ブリガム・ヤングの生涯

生い立ち

ブリガム・ヤングは、1801年6月1日に、バーモンド州ウィティンガムで、ジョン及びアビゲイル・ヤングの息子として生まれました。ブリガムの父、ジョンは、アメリカ独立戦争の退役軍人でした。アビゲイルと結婚した後、ジョン・ヤングはマサチューセッツ州に定住し、ブリガムの出生する前にバーモント州に移り住みました。ブリガムは12人の子供の9番目で、勤労に明け暮れる生活状態の中に生れました。後にブリガムは、幼少の頃を苦労と労働に満ちた生活で、教育を受ける暇すらなかったと振り返っています。正式に学校教育を受けたのはわずか11日だけだったにも関わらず、ブリガムの両親は読み書きを教え、生涯を通じて本好きであったことが知られています。

ブリガムがまだ少年の頃、家族はニューヨーク州へ移り、1815年に母アビゲイルは長年わずらっていた結核でこの世を去りました。妻アビゲイルの死後、ジョン・ヤングは未亡人だったハナ・ブラウンと再婚しました。ちょうどその頃、ブリガムは自立することを考え、15歳の年齢で独立し、ニューヨーク州アーバンに出かけ、見習いをした後、熟練した大工、塗装工、ガラス屋となりました。

1823年、ニューヨーク州ポートバイロンに移り住み、そこで塗装工と大工を営んでいる間、翌1824年にミリアム・ワークと結婚しました。二人は、地元のメソジスト教会に介入しました。そして4年後、ニューヨーク州オスウェゴに移り、オンタリオ湖周辺で当時アメリカに起こっていた宗教運動(1800年代のアメリカで聖書を元に真理を求めていた人々が起こした運動)に加わりました。同年末二人は、同州メンドンに移転し出産しましたが、結核にかかり、病身の身になったアビゲイルを支え、ブリガムヤングは、大工と塗装業を営みながら妻子の世話をし、一人で家を切り盛りしなければなりませんでした。妻に揺り椅子を作り、毎朝で書ける前に外が見えるように窓際に座らせてや、夜はベッドに運んであげるという生活でした。

モルモニズムへの改宗

メンドンで苦労しながらも、ブリガム・ヤングは一生懸命に働きました。今日でもブリガム・ヤングが作った家やその他の品々が残っています。1830年ジョセフ・スミスの弟のサミュエル・スミスという若い青年がメンドンを訪れ、末日聖徒イエス・キリスト教会という新しく組織された教会について伝道していました。サミュエル・スミスは、ブリガム・ヤングの兄弟であるフィネアスにモルモン書を読むように渡しました。そのモルモン書は、やがて父のジョン・ヤングの手に入り、彼を通してジョンの娘の手からブリガムのもとに回ってきました。ブリガムは興味を覚えましたが、慎重でもありました。それは当時の教派争いでいずれの教会にも幻滅を感じていたからです。ですからブリガムは聖書だけを自分で研究していました。二年間にわたってブリガム・ヤングはモルモン書を研究しました。そして遂に1832年初めに、ある若いモルモンの宣教師がブリガム・ヤングの前でモルモン書に対する謙遜な証を述べたました。後にブリガムは、その証が炎のように骨身にしみ込み、真理を悟ったと記録しています。こうしてブリガムと彼の兄弟を含むその家族は、1832年の春にバプテスマを受けました。アビゲイルもバプテスマを受けましたが、残念な事にその数ヵ月後、結核で亡くなりました。

ブリガムは、メンドン周辺ですぐにイエス・キリストの回復された福音を宣教しはじめました。彼はメンドンで同じく改宗した ヒーバー・C・キンボールの手に子供たちを預け伝道活動に力を注ぎました。

1832年9月のアビゲイルの死後、ブリガムは預言者[[1] であるジョセフ・スミスに会う為にオハイオ州カートランドへ行きました。ブリガムはこの最初の遭遇でオハイオ州カートランドのモルモンの集会で共に祈りを捧げ、教会では異言の賜物を経験した最初の人物となりました。1833年早期、ブリガムはカナダに伝道に行くように召され、その伝道後、彼はジョセフ・スミスがモルモンが集合するように教会員に伝えていることを知りました。そしてブリガムはメンドンとその周辺に住んでいる教会員をカートランドへ導くように依頼されました。この聖徒の集合のときに彼はロードアイランド州で教会に改宗し、ニューヨーク州からカートランド州に移ってきたメアリー・アン・アンゲルと会い、1834年2月14日にカートランドで二人は結婚しました。

指導者としての台頭

1834年夏にブリガム・ヤングと彼の兄弟の一人であるジョセフ・ヤングは、ミズーリ州を追放されたり、同州内で弾圧されていた教会員を援助するためにシオンの陣営として行進しました。この行進で彼らを慰める以外は何の手立てもすることができなかったにも関わらず、この経験が人生のうちで最も大きな学びの機会であったと述べています。シオンの陣営の行進から帰還後間もなく、ブリガム・ヤングは夏の間、全米とカナダの間を伝道して回り、残りの月々をカートランド神殿の建設の助けをしました。ガラス屋と大工の技能を生かして、ブリガムは神殿の窓の装備を担当しました。

ブリガムの指導者としての台頭は、1836年1837年の間、教会のほかの指導者の中でジョセフを堕落した預言者として非難したときにブリガムもその被害をこうむる事になりました。というのはブリガムはジョセフ・スミスに忠実であった為、ブリガムの命をも狙う人々がでてきて、一時はカートランドから避難しなければならなかったためでした。やがて教会がミズーリ州に移動した時、ヤングも共に移動し、モルモンが定住していたミズーリ州コールドウェル郡にモルモンを導く助けをしました。この新しい場所での平安も長続きはしませんでした。モルモンの人口の急増にともない地域社会の宗教的、政治的要素に大きな変化をもたらし、その結果生じる権利の不安定を恐れる地元市民の間に摩擦が生じ始め、モルモンの移住を脅威と見受けるようになりました。教会背教者との摩擦が裏目に出てさらに状態は苦難を招きました。

こうしてミズーリ州知事は、1838年10月に悪名高い「モルモン撲滅令」を発布し、モルモンは、死の脅迫をもって追放されました。ジョセフとその他の指導者は、拘留され、ブリガム・ヤングが暫時、教会を管理する事になりました。ブリガムは、数千人のモルモンをまとめて、「ミズーリの誓約」という名の下に、最後の教会員がミズーリ州を出るまで一人一人互いに助け合うという誓いを起草しました。この指導の下にすべての教会員がミズーリ州を脱出し、1839年早期までには、イリノイ州ノーブーに新しい家を構え始めました。ジョセフは1839年4月に釈放され、イリノイ州で新しい町の選択に協力しました。

ノーブーにあるブリガム・ヤングの家2000 Chad Nichols, MormonImages.com
ノーブーにあるブリガム・ヤングの家2000 Chad Nichols, MormonImages.com

1839年、ブリガム・ヤングは、ノーブーに新しい家を建て始めましたが、間もなく別の伝道地、英国に出発しました。その時、彼自身も含め、家族も病気の身の上でした。この伝道は、十二使徒定員会の使命は、教会初の米国外への伝道でした。病いの為、旅路は厳しかったのですが、遂に1840年4月に英国に到着しました。彼が英国伝道部を管理し、米国に帰国するまでに英国での改宗しバプテスマを受けた者の数は、8000人近くに上りました。またブリガム・ヤングは、英国でモルモン書、賛美歌、何千冊というパンフレット、「ミレニアル・スター」という新聞の印刷を監督しました。また米国に移民したい会員を援助する組織も作りました。

帰還後、ブリガム・ヤングに対する次の啓示が預言者ジョセフ・スミスに与えられました。:

「親愛なるブリガム・ヤング兄弟、まことに、主はあんたにこのように言われる。「わたしの僕ブリガムよ、これまでのように家族を残して出かけることは、もうあなたに求められない。あなたのささげ物を、わたしは受け入れたからである。わたしは、わたしの名のために行なった旅におけるあなたの働きと労苦を見た。それゆえ、わたしはあなたに、わたしの言葉を外国に送り出し、今から後いつまでもあなたの家族の世話をとくによくするように命じる。アーメン。」」(教義と聖約126:1-3)

1844年の短期間の旅以外、ブリガム・ヤングは、モルモニズムを聞いて以来ほぼ毎年出かけていた長期にわたる伝道には赴かず、家族と共に留まり教会の偉大な指導者になりました。ノーブーでは出かけていく宣教師を監督し、夏季の一部をノーブー周辺で宣教に費やしました。ブリガムは、この時期ジョセフ・スミスに与えられた啓示と教えの重要な部分に関わっており、彼の信仰は大いに試されました。1842年の初め、ブリガムはモルモンの神殿儀式に参加した人々の最初の一人でした。またモルモンが多妻婚と呼ぶ一夫多妻制を紹介された指導者の最初の一人でもありました。ブリガムは後に一夫多妻の原則を耳にした時、騒然として心の葛藤を繰り返す日々が続き、一時は死を望むようになったと記録しています。しかし後にこれが神からの戒めであったことを理解するようになりました。ブリガムはこの原則を実践し、56人の子供の父親となりました。

西へ向かう聖徒

ノーブーでも平和は長続きしませんでした。ブリガム・ヤングとその他の指導者が1844年に伝道に出かけている間、ジョセフ・スミスはノーブーに残りました。そして同年6月27日、暴徒の手によってカーセージの監獄暗殺されました。ブリガムとその他の使徒たちは8月上旬まで帰還することができませんでした。8月4日にようやくジョセフの継続者[2]を決定する会合が開かれました。指導権を主張するものもいましたが、ブリガム・ヤングは十二使徒定員会が神権の全ての鍵を持ち、教会を指導するようジョセフが死ぬ前に託されていたことを喚起させました。そしてこの秩序にならって教会が前進するように合意に達しました。

やがて1845年12月にノーブー神殿が完成しました。しかし暴徒の迫害と暴力は悪化し、聖徒はノーブーを離れることを余儀なくされました。最初のグループが氷結したミシシッピ川を越えてノーブーを離れたのは1846年2月のことでした。出立前にほとんどの聖徒らは神殿の聖約を受けていました。また西部への旅を続ける前に、互いに援助しあうことを誓う「ノーブーの誓約」にも署名していました。

春は泥と氷でアイオワ州の横断には大変な時間と労力がかかり、ネブラスカ州のウィンタークウォーターズ[ http://lds.org/gospellibrary/pioneer/13_Winter_Quarters.html]に到着したのは秋になりました。およそ1万6000人のモルモンがアイオワ州とネブラスカ州に散在する事になりました。当時、米国政府はメキシコ戦争に500人の兵を募っていました。参戦によって必要としていた生活資金を得ることができました。ブリガム・ヤングはその資金は、もし男性教会員がこの戦争で政府を援助し、忠実であれば戦争で命を失ったり負傷することはなく、結果として西部への旅に多大に貢献する事になると預言し、こうしてモルモン大隊[3]と名づけられた一隊は、西部遠征で教会歴史上独自の重要な行進をすることとなったのです。

冬の間、モルモンの開拓者らは、それぞれを隊に分けて組織し、1847年4月上旬にブリガム・ヤングは最初の148隊[[4]がユタへ向かって西部への旅を始めました。この開拓者の一隊は同年7月24日にユタ盆地に到着しました。ブリガム・ヤングの到着時の「まさにこの地だ。」という言葉は有名ですが、その時の感想を次のように述べました。:

「私はウッドラフ兄弟に指示して担架を半回転させソルトレーク盆地の一部が見られるようにしてもらった。光のみたまが私の上に留まり、また盆地の上を覆った。私はそこで聖徒たちが保護と安全を見出すと感じ、どの州でも私たちの上に留まっていた暗闇が一掃されたことを痛感した。」(ブリガム・ヤングの歴史より要約)

小さな移民団は、作物を栽培に取り掛かり、後から追いついてくる移民者たちの住む家の準備をし始めた。ヤングとその他の一部の教会員は、次に来る移民団の援助に戻っていった。彼らのユタへの帰還後、1847年12月、ブリガム・ヤングは末日聖徒イエス・キリスト教会の第二代大管長また預言者として支持を受けました。1850年までに1万6000人のほとんどの聖徒達は、ロッキー山脈の頂にあるソルトレークに定住しました。