パーリー・P・プラット

出典: MormonWiki

パーリー・P・プラット[1][2]は、末日聖徒イエス・キリスト教会(俗称モルモン教会)の初期の会員で、この末の日に組織された最初の十二使徒定員会の一人でした。彼は1835年から殺される1857年に至るまで使徒職に就いていました。

パーリー・P・プラット1807-1857
パーリー・P・プラット1807-1857

パーリー・パーカー・プラットは、1807年4月12日、ニューヨーク州バーリントンで、ジェレド及びチャリティー・プラットの間に生まれました。1827年9月9日、彼は数歳年長のサンクフル・ハルシーと結婚しました。間もなく二人は当時米国ではフロンティアだったオハイオ州クリーブランドに土地を購入して定住しました。そこで シドニー・リグドンが 説教者をしていた教会に加入しました。プラットは自分も説教者になり、土地を売ろうと決心しました。

ニューヨーク州を旅している間、プラットはモルモン書に遭遇し、一晩でこれを読み上げてしまい、モルモン書が真実であることを確信しました。その直後、彼はハイラム・スミスとその兄弟の預言者ジョセフ・スミスジュニアを訪ね、1830年9月1日、教会が組織された数ヵ月後、オリバー・カウドリによってバプテスマを受けました。間もなくパーリー・P・プラットは、メルキゼデク神権長老職に聖任され、彼の家族に会いに行き、これらの経緯を話しました。すると彼の弟、オーソン・プラットは教会に興味を抱き、それから間もない1830年9月19日、バプテスマを受けました。後、オーソンは教会で使徒職に召されました。

1830年10月、パーリー・P・プラットは、預言者ジョセフ・スミスと会い、アメリカ・インディアンに教えるために伝道に出かけるよう依頼されました。そして米国西部へ向かう途上、プラットは彼の昔の牧師であるシドニー・リグドンを訪問しました。この訪問の結果、シドニー・リグドンと彼に教えを受けている130人もの人々をわずか三週間のうちに改宗へ導きました。パーリー・P・プラットは、米国東部、南部、英国、太平洋諸島、南米など数多くの伝道に携わりました。彼は、彼の兄弟のオーソン・プラットや、フレデリック・G・ウィリアムズジョン・テイラー、ジョセフ・フィールディングとその姉妹のメアリーとマーシーを含め、後に教会の指導者となった多くの人々を教えました。このうち、メアリー・フィールディングは、後にハイラム・スミスと結婚し、後のモルモンの預言者大管長ジョセフ・F・スミスの母親になりました。

パーリー・プラットの伝道活動以外に、プラットは、1839年に始まった教会出版物の「ミレニアルスター」の印刷、著述家、編集者をしました。プラットはまた末日聖徒の有名な賛美歌の作詞家でした。

ジョセフ・スミスが殉教した後、プラットとその家族は、教会の開拓者一行と共にユタ州へ移動しました。プラットはモルモン・トレイル(モルモン街道)に添って作られた野営地の建設にとって重要な働きを果たしました。主な野営地には、ネブラスカ州ガーデンシティー、マウント・ピスガなど著名な場所があります。また自ら開拓者の先頭に立ち一隊のパイオニアたちをソルトレーク盆地に導きました。

1850年代、プラットはジョージ・D・ワットの助けを借りて、ヨーロッパから移住してくる多くの移民が英語を習得する援助を目的とした「デゼレト・アルファベット」というプログラムを開発しました。この時代プラットはカリフォルニアに住み、同地と太平洋諸島の伝道活動を管理しました。1856年、プラットは別の伝道に召されましすが、1857年5月13日、アーカンサス州バンビューレンで殺害されました。