ノーブーとジョセフ・スミスの殉教
出典: MormonWiki
美しきノーブー、ジョセフの市
モルモン撲滅令でミズーリー州から追放された後、末日聖徒イエス・キリスト教会(俗称モルモン教会)の会員は、1839年の一月、イリノイ州クインシー市で非難民として保護を受けました。同情的なクインシー市民は、聖徒達が自分たちを確立できる別の場所を見つけるまで彼らの援助に手を差し伸べました。ジョセフ・スミスが偽りの反逆罪で収監されている間、ブリガム・ヤングと十二使徒定員会が、教会を導いていました。結局4月16日、ジョセフを起訴に持ち込むことは不可能だと結論した保安官や警備兵は彼らを釈放しました。
4月25日、ジョセフ及び他の指導者らはイリノイ州ハノック郡コマースという町を選び、そこへ移住することに決めました。そこはミシシッピ川の大きな湾曲した地形を見下ろす湿地帯でしたが、美しい場所でした。十二使徒は直ちに福音を宣べ伝えるために出かけました。ジョセフ・スミスはこの新しい市の建設を助けるため同地に残りました。ジョセフはこの市をヘブル語で「美しい」という意味のあるノーブーという名前に変えました。 モルモンたちは自分たちが追放されたミズーリ州の土地に戻るか、その土地の賠償金を得ることになるかのどちらが取るべき手段かを案じていました。そこでジョセフは彼らに自分たちに起こった出来事と失ったすべてのものを文書に著すよう指導しました。1839年10月、ジョセフ・スミスは、これらの供述書を持って、米国議会の議員とマーティン・バン・ビューレン大統領に会うためにワシントンD.C.へ赴きました。大統領を含む時の政治家たちは当時州権論が主論であったため、州内で起こった不祥事は州政府が補償すべきだとの政治的解釈に基づき、彼らへの援助はしませんでした。そこでジョセフはボッグズ知事が対応処置を拒否したことを説明しましたが、結局バン・ビューレン大統領は聖徒達を援助することはできないと彼らを退けました。
こうしてジョセフはノーブーに何の甲斐も無く戻ることになりました。その後、ジョセフとその他の指導者たちは、再び違法な暴徒達によって追い出されたり悩まされることがないように決意を固めました。そして法的にも暴徒からの不正な攻撃から自分たちを保護できる法的権利を与える憲章を申請し、これを獲得しました。ノーブー憲章では、当時合法的に習慣として作られていた市民軍(警察隊)「ノーブー部隊」の構成、市立大学の設立、集会を開く権利、教派を問わない個人の礼拝の自由を保障する法律がつくられました。また市の判事の「人身保護令状」なしにノーブー住民を逮捕することができないことも明記しました。つまり、公正な手続きなくしてノーブー住民が暴徒や郡保安官によって引きずり出されるようなことは絶対にないということを確保したのです。
ノーブーは繁栄し、まもなく英国やカナダからの移住民が到着し始めました。1840年、教会は設立10周年を迎え、1830年4月にはわずか6人で組織した教会から、1840年末には1万6000人以上という大きな発展を遂げました。また英国には多数の教会員がおり、教会は「ザ・ミレニアル・スター」紙("The Millennial Star")という新聞を発行し始めました。
同年秋には、モルモンたちはノーブー神殿の建設に着手し、ジョセフ・スミスは「死者のためのバプテスマ」[1]という教義を教える啓示を発表しました。この教えは、イエス・キリストの福音[2]を知ることなくこの世を去ったすべての人々が、生きている人が彼らのための身代わりの儀式をすることで、福音とその儀式を受け入れることができるということでした。
1841年までに、モルモンの数は増加し、ハノック郡からミシシッピ川を越え隣接するアイオワ州へも溢れるようになりました。これと同時に聖徒らに対する迫害も続き、ミズーリ州政府は、数回ジョセフ・スミスとその他の指導者のミズーリ送還を試みています。誰かがボッグズ知事を暗殺しようと試み、証拠も無いまま、ボッグズ知事はジョセフ・スミスの仕業だと決めつけました。幸いな事に、ミズーリ州住民は証拠が無かった為、誰も送還されることはありませんでした。これはノーブー市の条例で送還するには法的証拠を要求していたからでした。
また同年1841年に、十二使徒はヨーロッパへの伝道を続行しました。使徒の一人、オーソン・ハイド長老は、ヨーロッパ全土とさらにオットマン帝国の一部であったパレスチナにも訪れました。1841年11月、ジョセフ・スミスは、死者のためのバプテスマを行うことができるように新しく建設されたノーブー神殿を献堂しました。
1842年初頭は何事も無く穏やかに過ぎていきました。その春、シカゴの新聞記者、ジョン・ウェントワースがジョセフ・スミスに、教会の沿革と信条についての簡単な概要を説明するよう求めてきました。これに答えたジョセフ・スミスの手紙は、現在ウェントワース書簡として知られており、教会の信条をまとめた書簡は教会の信仰箇条となりました。
1842年10月17日、ジョセフ・スミスは女性のための扶助協会を組織しました。ジョセフ・スミスの妻、エマ・スミスが初代会長になりました。扶助協会は女性を団結組織しました。発足後、教師が任命され福音を相いに教え、相互扶助と慈善奉仕のプログラムが作られました。扶助協会の早期の使命は、ノーブー市の貧困な人々を扶助し、ノーブー神殿建設の援助をすることでした。この使命の下に女性組織を扶助協会と名づたのです。今日では扶助協会は、世界最大で最も古い女性組織の一つです。 1842年の残りと1843年のほとんどは、平穏な時ではありませんでした。新しい市の建設、特に神殿の建設の間、ジョセフとその他の指導者はしばしば隠遁生活を強いられました。5月、ジョセフと近しい仲間で友人だったジョン・C・ベネットが姦通の罪により教会から破門されました。ベネットは1840年8月にノーブーに到着し、地元住民の信頼を得るほど有能な人物でした。バプテスマを受ける前は、医師、メソジスト教会の説教師、大学の創設者、大学学長、軍隊の指導者、またイリノイ州軍の補給局長を務めた経歴を持っていました。さらにシドニー・リグドンが健康を害していた時は、その回復を待つ間は大管長補佐という責任も受けていました。ところが、翌年1841年6月に、オハイオ州には彼と別居中の妻子があることが発覚し、ノーブー到着当時には未婚であることを主張していたことが偽りであることが明るみに出たのです。事実を突きつけられたベネットは悔い嘆いている様子を装って、毒を飲んで偽りの自殺も演じたほどでした。この頃、多妻婚の教義を湾曲し、教会内での高い地位を利用して、何人かの女性を不道徳な行為に誘惑していました。正体を明らかにされる以前に、すでにベネットは預言者暗殺の陰謀や教会乗っ取りの工作をしていたこともわかりました。このため、一度はノーブー市初代の市長にまで選出されたベネットは破門を余儀なくされました。(当時、友愛精神を基とするフリーメーソンからも除名されています。)ベネットが教会を去った後、憎しみに満ちたベネットはジョセフ・スミスと教会を事実に基づかない報告文書で攻撃し始めました。その結果、ベネットの影響力に騙された人々は、教会を敵視するようになりました。この為、ジョセフはほとんど隠遁生活を強いられました。隠れ場所からジョセフは教会に手紙を書き続けました。
1843年、ジョセフは迫害者から隠れる時期と公に福音を宣べ伝える時期との交代が続き、福音を聞きたい人々の数が多すぎたため、時には地元の建物には入りきれず、森の木立の中で集会を開くことさえありました。ジョセフはすべてのモルモンが集合して、多くの神殿を建てる重要さを説きました。7月、ジョセフは一夫多妻として知られる啓示を記録しました。これは、ジョセフが旧約聖書に書かれている預言者アブラハムのように複数の妻を持つことに疑問を抱いていたからです。そこでこれについて主に尋ねる事にしました。主はこれに答えて、神が人に複数の妻を娶ることを命じられることがあるが、この戒めを行う時には十分な注意を要して従わなければならないと啓示を与えられました。ジョセフはこの答えを受けても悩み続けていましたが、この教えを最も忠実な教会の仲間に教え始めました。多くの祈りを捧げた結果、ほとんどの仲間はそれが神からの啓示であることを受け入れました。
一方、これを好ましく思わない人もいました。ノーブー市の市長を努めていたジョン・C・ベネットが破門されてからは、ジョセフが市長を引き継いでいました。中にはジョセフが教会の大管長と市長の職を兼任するのは持てる権限が大きすぎると感じた人もいました。ジョセフは彼が独裁的ではない証拠に、信条としている「人々に原則を教え自分たちを治めさせよう」という考えを示してこれに返答しました。1844年の早期、ジョセフ・スミスは七十人を監督する七人を任命しました。これはイエスがその時代に任命された七人(使徒行伝7:3参照)に相当するものです。
1844年初期は苦悩の時期でした。一夫多妻に反対する人々やジョセフが堕落した預言者と思う人々が入り乱れ、教会に反対する人がいました。ベネットのように反モルモンで教会から破門された人々は、モルモンやジョセフ・スミスについて中傷的で名誉を毀損するような報告を出版し、人々を煽動し続けました。ジョセフはこのような批判と、バン・ビューレン大統領との経緯もあり、教会員が大統領として支持できる人物を求め、十二使徒定員会は間近な大統領選対応策を討議しました。その結果、ジョセフ・スミスを教会独自の大統領候補として提議しました。当選を期待してのことではありませんでしたが、ジョセフと教会はこれを意見発表の機会として捉えたのです。ジョセフ・スミスは当選すれば、社会の少数派を保護することを公約しました。具体的には、金銭債務不履行による禁固の廃止、刑務所の教育・更正施設化、1850年までの奴隷制度廃止(奴隷を奴隷所有者から買い取る基金を設立して奴隷を解放し、奴隷制を終焉させる)、国有地売却益を資源とする奴隷所有者への支払い、各州に支店を持つ国立銀行の設立を唱えました。
殉教
1844年6月7日、モルモンに対して不満を抱いていたウィリアム・ロウは、最初で最後のノーブー・エクスポジター紙(The Nauvoo Expositor)を発行しました。それはジョセフ・スミスを首吊りにするべきだという極めて中傷的な印刷物でした。同紙はジョセフとその他の指導者たちがあらゆる悪事をしているというような疑いに満ちた文章でした。6月10日、ジョセフ・スミスは市長として、これにどう対処するかを決定する為に市議会を開きました。彼らは暴力の発生が余儀されるなくされることを鑑み、印刷機を撤廃する権限があるという事に基づいて、その決定を出しました。こうして印刷機とほとんどの新聞は廃棄処分されました。その結果、暴動が起こりジョセフ・スミスは、暴動を煽動した罪で郡保安官から狙われました。ジョセフ・スミスが牢に居る間に暴徒が攻撃するか不正な裁判が行われるという恐れがあり、ジョセフは数日身を隠す事になりました。ジョセフは方法を変えようと求めましたが、拒絶されました。
イリノイ州知事のトーマス・フォードが州都スプリングフィールドから赴き、この事件を監督しに来ました。知事はジョセフ・スミスに身柄の保護と、身柄を引き出せば正当な裁判が与えられると約束しました。こうして6月22日、ジョセフは知事に身柄を渡すことにしました。ハノック郡の郡庁のあるカーセージにジョセフは送還されました。ジョセフの多数の友人は彼を離れることを拒否しましたが、ジョセフは彼らに自分から離れるよう命じ、知事の保護の約束を信じるよう伝えました。6月26日、知事がカーセージを離れ、カーセージの市民軍カーセージ・グレイズにジョセフの保護を任せました。
1844年6月27日の早朝、ジョセフは目を覚ましました。そして残っている友人に自分から離れるよう命じました。そして3人を残してすべての友人がノーブーへ戻っていきました。この3人のジョセフ・スミスの兄、ハイラム・スミス、ジョン・テイラー、及びウィラード・リチャーズが、終日ジョセフと共に残りました。彼らは手紙を書き、音楽の才能に秀でたジョン・テイラーが賛美歌を歌いました。その夜、午後5時あたりに、顔を真っ黒に塗った暴徒が牢獄を取り囲みました。共犯関係にあったのかどうかわかりませんが、看守が警告の銃弾を放ち、そこを立ち去りました。公正な裁判が行われるまでジョセフを保護するはずであった市民軍のカーセージ・グレイズから構成されていた暴徒たちが、牢獄になだれ込みました。ジョセフ他、教会の指導者達は独房から二階にあるより快適な寝室に移されていました。暴徒が牢獄に駆け込むと、ジョセフとハイラムはドアを閉じようと試みました。ジョセフは友人が残してくれた銃を取りました。そしてそれを使いたくは無いといいましたが、これを使って友人を護ると約束しました。三発発砲し、三人に傷を負わせました。しかし銃がつかえてしまい、作動しなくなりました。ハイラムが必死でドアを押さえようとした時、彼は顔に銃弾を受け、床に倒れました。ハイラムは「わたしは死ぬ。」("I am a dead man!")という最後の言葉を残して、死んでしまいました。ジョセフは床に駆け寄り、死んだ兄を瞬時抱きかかえました。ウィラード・リチャーズとジョン・テイラー(四発銃弾を受けますが生き残った)がドアを押さえる間、ジョセフは窓へ向かって歩いていきました。誰もその理由を知っている者はいません。恐らくは残る友人に向けられた敵の発砲を避けたかったのでしょう。窓でジョセフは打たれ、身を崩しました。ジョセフは、「おお主よ、わたしの神よ。」と叫び、外の井戸の近くに落下しました。ジョセフがこの時、息絶えていたかどうかわかりませんが、さらに三発銃弾を身に受けました。暴徒がさらにジョセフの体を損傷しようとする前に、誰かが「ノーブー市民軍が迫っているぞ」と叫びました。すると暴徒達はあちこちに散らばって逃げて行きました。こうしてジョセフ・スミスは殺されてしまいました。彼の友人でジョセフと共に傷を受けたジョン・テイラーはジョセフの殉教の出来事を書きとめ、後にこれは教義と聖約第135章になりました。
殉教後のノーブー
教会を敵視したワーソーにある新聞社の編集者でトーマス・シャープのような人々は、ジョセフの死にあたって、教会はジョセフなしでは今後衰えの一途を辿るだろうと推論していました。つまり彼らはモルモニズムはジョセフを中心に築き上げられたあるカルト現象[3]に過ぎないと信じていたのですが、それは誤りでした。ジョセフが死んだその年、モルモニズムにはさらに4000人の人々が改宗しています。かれらはカルトに加わる為に来たのではなく、生ける預言者を通して神のみ心に従ったにほかなりません。しかし依然としてモルモンにとっては困難な状況にあることには変わりありませんでした。中には神はジョセフを死なせることなどないと考えていた人もいました。しかし、ジョセフ・スミスの為すべき仕事は完結したのです。
ジョセフ暗殺の知らせを受けた十二使徒定員会とその他の教会指導者たちは、赴任していた伝道地から急ぎノーブーへ取って返してきました。8月に、大会が開かれて教会を誰が引き継ぐか決定する事になりました。ジョセフは繰り返しシドニー・リグドンの激しい口調と高慢さを非難していましたが、このシドニー・リグドンが教会の「後見人」として自分を擁立しようと試みました。しかし、ブリガム・ヤングが十二使徒定員会の会長として定員会を代表して1844年8月8日、大会で説教をしました。この説教で、ブリガム・ヤングはすべての儀式をする神権の権能と、権利または「鍵」は、ジョセフ・スミスが十二使徒に与えたので、依然として教会にあると述べました。
ジョセフの暗殺によって、モルモンたちは彼らを敵視する人々からの迫害からは一時的に猶予の機会を得ました。しかし、実際教会が歩みを止めたわけではありません。事実、教会は成長し続け、十二使徒定員会は続けて、モルモンの宣教師を全世界に送っていました。また神殿の建設も完了に向けて続けていました。一旦、モルモンを敵視する人々がモルモンはノーブーから立ち退く様子がないのを見ると、彼らは再び聖徒たちに暴力を振るい始めました。
1845年1月、ノーブー市は廃止されてしまいました。この痛手に追い討ちをかけるように、同年5月、誰一人としてモルモンが証言したり、出席することが拒まれた不正裁判のため、ジョセフとハイラムを殺害した暴徒の指導者は無罪放免されました。
同年秋までにブリガム・ヤングと十二使徒定員会は以下の二つの決定を下しました。先ず、神殿の建設を完了すること、次に数年前にジョセフが最終的に聖徒達が住むであろうと予言していたロッキー山脈の地へ移住する準備をすることでした。9月、ハノック郡住民はモルモンに移動することを求めました。12月までには、ノーブー神殿 [4]は、モルモンたちが聖なる儀式の神殿のエンダウメントを受けはじめるには十分なまでに完成し、家族を永遠に結び固めることを可能にする日の栄えの結婚を受けることができるようになりました。
1846年2月、モルモンの開拓者 (アイオワ州国立公園資料の「モルモンの開拓者」を参照)[5]たちの第一陣が徒歩で凍結したミシシッピ川を渡り、アイオワ州に入りました。一方、2月8日、ノーブー神殿が正式に献堂されましたが、一般への献堂式は5月1日まで行われませんでした。モルモンの開拓者団の波が次々にノーブーを離れ、アイオワ州プラット川沿いの各地に一時的な居留地を構えました。これらの居留地には、ガーデングローブ、マウント・ピスガ、ケインズビル(現在のカウシル・ブラッフ)、ネブラスカ州ウィンタークォーターズ[6]があります。旅は遅々として進まず、湿った旅路でした。9月10日、最後に移住したモルモンたちが暴徒に襲われた出来事は、ノーブーの戦いとして知られています。1846年9月16日までに最後のモルモンたちはノーブー市から追われました。美しい神殿[7]は、放火魔によって焼かれてしまいました。1844年当時のノーブー市は、シカゴ市の美しさと規模で肩を並べるものでしたが、そのすべてが破壊されたのでした。1850年、竜巻がノーブーを襲い、放火魔によって炎上した焼け残りは、完全に崩壊しました。
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