スペンサー・W・キンボール
出典: MormonWiki
スペンサー・W・キンボールは、末日聖徒イエス・キリスト教会の第12代大管長、預言者でした。キンボール大管長は、教会の組織構築へ貢献したことと、すべてのふさわしい男性が神権を受けることを許可した啓示を受けたことで知られています。教会の大管長になったときには既に高齢であったにも関わらず、その就任期間(1973-1985)のほとんどが、ダイナミックなエネルギーと寛大さ、また人類全体に対する偽りのない愛情を持っていたことで特徴付けられています。
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生い立ち
スペンサー・ウーリー・キンボール(Spencer Wooley Kimball)は、1895年3月28日に、ユタ州ソルトレークシティーで、アンドリュー・キンボールとオリーブ・ウーリーの息子として生まれました。(祖父は使徒のヒーバー・C・キンボールでした。)父親は、セールスマンとして米国西部全域を巡回しました。スペンサーが3歳の時、父親が地域のステーク会長として召された為、家族はアリゾナ州南東部の小さな町サッチャーに移りました。
少年時代にはチャレンジの多い人生を送りました。腸チフス、天然痘、一時的な身体麻痺にかかりましたが、いずれも奇跡的に快復しました。また一度は溺れそうになったこともありました。兄弟4人は死亡し、彼が11歳の時母親も亡くなりました。また健康な時には、家族の農場で一生懸命働かなければなりませんでしたが、厳しい労働にも屈することなく、高校を卒業しました。父親は後に、スペンサーは「常に頼んだことは何でも果たそうとした心を配る稀に見る少年だった。」と回想しました(L. R. Flake著, "Prophets and Apostles of the Last Dispensation," pg 114より抜粋)。
1914年に、スペンサー・W・キンボールは、25人以上の宣教師を管理する米国中部に伝道に召されました。宣教師のほとんどが彼よりも年長で、中には結婚している者もありました。帰還後、第一次世界大戦の召集が出されそうになりましたが、役所の問題のため手続きが遅れ、結局は召集されませんでした。しばらくして地元で教師を務めていたカミラ・アイリングと1917年11月16日に結婚し、二人には4人の子供が産まれました。スペンサーは銀行と保険業界で活躍し、教会の責任や家族と共に過ごすために、ほとんどの人生を時間に柔軟性のある自営業で過ごしました。1920年代にはさまざまの銀行に勤務し、1927年に保険と不動産業をアリゾナ州で開業しました。経済的に厳しい時期であったにも関わらず大恐慌の間も自営業をまかない、公共活動にも積極的に参加しました。
教会での責任
スペンサー・W・キンボールは、生涯を通じて教会のさまざまな責任を果たしました。大きなハリケーンの被害からの回復援助に携わっている時、アリゾナ州とテキサス州でステークの書記とステーク会長の責任を果たしました。1943年には十二使徒定員会の会員に召され、責任には不十分さを感じながらも、彼の妻の励ましと、神への信仰に頼り、自営業の仕事を売り払い、家族とソルトレークシティーに移りました。こうして同年10月、使徒として支持を受け、聖任されました。
使徒を務めている間、スペンサー・W・キンボールは、ネイティブ・アメリカンの人々と働く責任がありました。これらの人々の貧困さと苦難に心を悩ませ、経済的な重荷を克服する援助を始めました。まず、インディアン学生進学援助プログラム(the Indian Student Placement Program)を設立し、高等教育を希望するインディアンの学生がモルモンの家族と一緒に住み、学校に行くという形の経済援助を実施しました。同プログラムはインディアンの必要が満たされプログラムが不要となるまで継続されました。
スペンサー・W・キンボールは、優れた宗教学者でもあり、「赦しの奇跡」という本を著し、同書は教会内では頻繁に引用され、イエス・キリストの贖罪と悔い改めをさらによく理解させることで多くの人々に希望を与えました。また「奇跡に先立つ信仰」という本も書きました。さらに卓越した話し手として、モルモニズムの擁護者でもあり、平和と調和を愛する一方で、原則は決して曲げない確固とした態度の持ち主でもありました。 後年、咽喉癌と心臓病を含む健康上の深刻な問題を抱え、一度は声を失ったこともありましたが、やがてかすれた声ながらもそれを取り戻すことができました。晩年には癌が声帯に広がり、移植手術で再び話すことができるようになりました。彼の伝記著者は、キンボール大管長のユーモアに満ちた言葉を回想し、積極的な態度を生涯保っていたことを彼の特徴として指摘しています。
大管長
1973年にハロルド・B・リー大管長が亡くなったとき、キンボール大管長の大管長としての任期はそう長くはないと憶測していましたが、これに反して合計12年もの長い期間、その責任を果たしました。キンボール大管長の下で、教会の会員数は二倍になり、600万人近くに増加しました。またすべてのふさわしい会員[1]に神権が与えられるという啓示を受け、末日聖徒イエス・キリスト教会の使命を簡潔に表現した教会の三つの使命を確立しました。この使命とは、教会員である聖徒を完成させてすべての人々をイエス・キリストの下に導くこと、福音を宣言すること、及び神殿の業を通して死者を救うことです。
高齢と健康の問題があるにも関わらず、キンボール大管長は、活発であり。全世界の教会員を訪れました。キンボール大管長は、「実行あるのみ(Do it)」と「歩みを早めよ(Lengethen your Stride)」という二つのモットーでよく知られています。そして全世界に福音をもたらすというチャレンジに対して、すべてのモルモンが立ち上がるよう呼びかけました。1973年には、年にわずか9000人しか送り出されなかったモルモンの宣教師 Mormonは、1985年には毎年2万人の宣教師が送り出されるようになり、通常4万5000人の宣教師が伝道に携わっています。
またキンボール大管長は、ジョセフ・スミスの時代以来、設置されていなかった第一七十人定員会を組織しました。また地区と地区会長会を設け、教会員管理の援助をしました。さらに日曜日の礼拝行事を3時間制としました。また当時の開館運営している神殿の数を15から31に増加する許可を出しました。一方、教会の成長は特に南米で著しく、1970年代後半には、この会員増加とアフリカ系黒人に神権の授与を禁じていることなどが懸念されるようになりました。それは南米の多くの教会員は、黒人との混血が多かった為です。これらの懸念に対する解決法を熱心に祈り求めている間、キンボール大管長は、すべてのふさわしい男性会員は、神権を受けることができる時が到来したという啓示を受けました。この啓示は教会の「公式宣言 二」として教義と聖約の中に加えられました。そして教会はいち早く、アフリカへ赴き、何万人もの改宗者を回復された福音の中に招き入れました。
死と受け継ぎ
1985年11月5日、忠実かつ賢明に大管長として務めた後、スペンサー・W・キンボール大管長は、ソルトレークシティーでその生涯を閉じました。その偉大な啓示と教えが人々の記憶に残っているばかりでなく、才能とユーモアにも溢れた人として覚えられています。歌を歌い、ピアノを弾き、スポーツを愛し、品のある冗談も話せる人でした。彼は人々と共にいることを好みました。高校以上の学業を修めたことが無いために不十分さをしばしば感じながらも、勤勉さと幅の広い読書でこれを補いました。彼は人を愛し、誰でもが教育と福音を受ける機会を望みました。キンボール大管長は、その広がる笑顔と勤勉さと愛情の豊かな人として、人々の心に残っています。
キンボール大管長の著書と彼についての本
- 「奇跡に先立つ信仰」(Faith Precedes the Miracle)
- 「赦しの奇跡」(The Miracle of Forgiveness)
- 「悲劇か運命か」(Tragedy or Destiny)
- 「歩みを速める」(Lengthen Your Stride: The Presidency of Spencer W Kimball by Edward L. Kimball)
- 「スペンサー・W・キンボールの教え」(Teachings of Spencer W. Kimball by Edward L. Kimball)
スペンサー・W・キンボール大管長の言葉
- 「完成に向かって働くことは一回限りの決心ではなく、生涯を通じて追い求める過程です。」::“Hold Fast to the Iron Rod,” Ensign, Nov. 1978
- 「私たちには主に仕える決心があります。私たちにはその大儀が、義しく価値あるものだという確信があります。しかし、何にもまして、神が生きておられ、天におられ、神の御子イエス・キリストは、もし私たちが忠実であるなら、私たちと私たちの愛する人々に永遠の命をもたらす計画を立てられたことを確信しています。そんな人生は多忙で、達成感と喜びと発展のある目的に満たされたものです。」::“The Cause Is Just and Worthy,” Ensign, 1974
- 「真実の末日聖徒の家族は、嵐と人生の葛藤に逆らう天国です。」::“The Fruit of Our Welfare Services Labors,” Ensign, Nov. 1978
- 「一世紀半以上も前に、鉄の天井が砕かれ、天が再び開かれ、その時以来啓示が継続していることを、私は今日の世界に向かって証します。」
「神聖な導きを求める情熱に満ちた切なる祈りが捧げられたことで、天との交流の曙が訪れました。一人で人目を離れて祈る場所が見出され、ひざまずき、祈る心の鼓動が高まり、願いが声に表され、真昼の太陽よりもまばゆい光が輝き、天のカーテンは二度と閉められることはありません。」::Conference Report, Apr. 1977, pp. 114–15
外部リンク(英文)
- Biography on Light Planet
- Biography on Family Forever
- Modern Prophets

