ジョセフ・スミス
出典: MormonWiki
ジョセフ・スミスジュニア (1805年-1844年)は、末日聖徒イエス・キリスト教会の設立者です。モルモンは、ジョセフ・スミスのことを預言者と呼んでいます。それは、旧約聖書と新約聖書に書かれている預言者の伝統的な役割によると、彼は人々を教えるために神からの啓示に依存していたからで、自分の知恵や知識に頼ることがなかったためです。
預言者ジョセフ・スミスは、米国史上、最も人を惹きつけ、影響のある宗教的人物です。ジョセフ・スミスは人生を通して多くの信奉者を集めましたが、また多くの反対者も増えました。それは当時存在していたキリスト教界の多数の人が、彼の教えを歓迎しなかったためです。それらの人の多くは、ジョセフ・スミスが教えた教義は神に対して不敬だと考え、自分たちの聖書の解釈とはかけ離れていたからです。まず初めにその主に目立った点は、ジョセフ・スミスの啓示を受けたという宣言が、キリストの使徒たちが死んだ後、啓示は途絶えてしまったと信じていた当時のほとんどのクリスチャンの考えとは正反対の立場だったからです。しかし、既存のキリスト教界の教えに聖書と矛盾を抱いていた人々にとっては、ジョセフ・スミスの証はキリストの教えに立ち戻った待望の教えでした。
ジョセフ・スミスの歴史
ジョセフ・スミスの先祖は、17世紀にイギリスからマサチューセッツに移住してきた人々で、ニューイングランド地域に農場を開墾したありきたりの農夫でした。ジョセフ・スミスは、バーモント州シャロンに1805年12月23日、ジョセフ・スミス・シニアとルーシー・マック・スミスの息子として生まれました。少年時代、ジョセフは正規の教育をほとんど受けていませんでしたが、読み書き、算数などの教育は修めていました。
余談:日本史との比較:ちなみにこの時代の日本と比較すると、日本では江戸時代後期に当たり、幕末の動乱前奏曲といったところです。1801年幕府は百姓、町人に対する苗字、帯刀禁止令を出し内乱を極力回避する方針が強化されており、1805年には百姓の武芸稽古も禁止しています。また1808年、江戸湾の大砲台修築が起工され、鎖国状態にあった日本は、1825年には外国船打払令を出し、開国にはまだ程遠い時期でした。
スミス家は20年足らずで何度も移転しています。スミス家がニューヨーク州パルマイラに移り住んだのは、ジョセフが11歳の時で、ジョセフはそこで残りの少年期を過ごしました。当時この地域は、宗教的興奮の著しい土地で、数々のキリスト教派が野外集会や信仰復興運動を繰り広げており、互いに改宗者を勝ち取ろうと競い合っていました。
このように多くの牧師たちの矛盾する説教がこだまする社会環境の中で、1820年、14歳でジョセフはどの教会に属すべきか悩んでいました。一方、家族はメソジスト教会や長老派教会に関心を抱いていました。ジョセフは数多くの教派のうち、どれが正しいか知ろうと決心をしました。知恵に欠ける者は神に尋ねよ、という新約聖書ヤコブの手紙1:5を読んで以来、ジョセフは神に直接尋ね、導きを受けるのが一番よいと分かったからです。
- 「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヤコブの手紙1:5)
1820年の早春のある朝、ジョセフはどの教会に従うべきかを神に聞くため、人里はなれた森へ行きました。ジョセフが祈りを捧げていると、父なる神とその御子イエス・キリストが彼に現れました。この経験はモルモニズムでは最初の示現と呼んでおり、人類の歴史上、イエス・キリストの死と復活の出来事の次に重要な出来事と考えられています。最初の示現を、キリストの召された古代の使徒が死に絶えた後に失われてしまった地上におけるキリストの真実の教会を回復するみ業の始まりとして定義するならば、この出来事は極めて重要なものです。
この後1823年に、ジョセフ・スミスは、モロナイという名の天使の訪れを受けました。この天使は、古代アメリカ大陸の住民と神の交わりの記録についてジョセフに明らかにし、その記録が隠されている場所を示しました。しかし、天使はジョセフに、その記録を手に入れるにはさらに四年待たなければならず、その時が来るまで、毎年同じ場所に戻ってくるように命じました。こうして1827年、ジョセフは遂にその記録を手に入れることができました。この記録は金版の上に古代の文字が彫られているものでした。ジョセフは「神の力と賜物」によって、その古代の言葉を翻訳しました。
翻訳の努力の結果、この記録は1830年3月にモルモン書:イエス・キリストについてのもう一つの証という名前で出版されました。モルモン書の出版に続いて、1830年4月6日、預言者ジョセフは、遂に教会を組織し、最初の大管長となりました。1825年、ジョセフはペンシルベニア州ハーモニーで働いている時、エマ・ヘイルに出会い、1827年1月18日に二人は結婚しました。二人の間には養子として迎えた二人の子供を含めて11人の子供が生まれましたが、その内、乳児期を過ぎて成長した子供はわずか5人でした。ジョセフは、心から家族を愛し、彼の個人的書簡は家族に対する安否を気遣う関心と祈りに満ちています。
殉教
1844年6月27日、カーセージの監獄に収監されているとき、ジョセフ・スミスのその兄、ハイラム・スミスは、顔を真っ黒に塗った暴徒によって殺されました。(カーセージの監獄を参照)預言者の死後、この殉教の目撃者であるジョン・テイラーは以下の追悼文を書きました。:
- 「主の預言者であり聖見者であるジョセフ・スミスは、ただイエスは別として、この世に生を受けた他のいかなる人よりも、この世の人々の救いのために多くのことを成し遂げた。」(教義と聖約135:3)
彼の短い人生の中で、預言者ジョセフ・スミスは、町を建設し、聖典を出版し、また全世界に向けて宣教師を送り出しました。また神殿の建設に関与し、ノーブー市の市長を務め、さらには米国大統領候補にもなりました。
モルモン以外の歴史に精通した人々から、ジョセフは米国史上、最も影響のある宗教指導者として知られています。もはや啓示はなくなったと信じていると従来確立されているキリスト教界の信条に挑戦したため、確かにジョセフ・スミスは、迫害された議論の的となった人物です。
末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は、預言者ジョセフ・スミスを礼拝してはいません。しかし、イエス・キリストの福音を地上に回復するための神の道具として働いたジョセフに尊敬の念を抱いています。ジョセフ・スミスの死後は、ブリガム・ヤングが大管長を継ぎました。
- 詳しい情報は、 ジョセフ・スミスの殉教を参照してください。
聖なる森で撮影された故ゴードン・B・ヒンクレー大管長の福音の回復の証のビデオ(英文)は次のサイトをクリックしてください。here.
外部リンク
- 教会公式ジョセフ・スミスのサイト[ http://josephsmith.net/josephsmith/v/index.jsp?vgnextoid=041579179acbff00VgnVCM1000001f5e340aRCRD&locale=0]
- 教会公式ジョセフ・スミス関係サイトのリスト[1]
- 米国議会図書館ジョセフ・スミスのシンポジウム[2]
- Facts about Joseph Smith Jr. -- LDS.org教会公式サイトのジョセフ・スミスについての事実
- Joseph Smith - Home
- Joseph Smith - American Prophet
- Joseph Smith Daguerreotype
- JS-H 1
- Fulfilled Prophecies of Joseph Smith
- Joseph Smith - Lightplanet
- Joseph Smith: Biography and Much More From Answers.com
- Joseph Smith Jr. - Wikiquote
- The Testimony of the Prophet Joseph Smith
- Joseph Smith - bellsouth
- Joseph Smith: Prophet, Revelator, Human; Interview with Richard Lyman Bushman
注:リチャード・ライマン・ブッシュマン博士は、米国最高権威として著名な歴史家で、米国コロンビア大学の名誉教授です。
- Joseph Told the Truth: Responses to accusations about Joseph Smith
- Video lecture:Accusations against Joseph Smith addressed
- Joseph Smith's First Vision Accounts
カテゴリ: ジョセフ・スミス | 大管長 | モルモン書のトピック


