シオンの陣営

出典: MormonWiki

1834年5月5日、預言者と末日聖徒イエス・キリスト教会(俗称モルモン教会)の指導者らは、オハイオ州カートランドから85人の男性会員をミズーリ州へ向けて出発させました。この一行の目的は、家、土地、所有物を暴徒によって剥奪されたミズーリ州のモルモンたちを援助し、土地を奪回することでした。この一行は行進しながら参加者を募っていきました。最後に参加したグループが到着した時には、その数が男性200人以上、女性12人、子供9人に膨れ上がっていました。最高年齢の志願者は、79歳のサミュエル・ベーカーで、最年少はジョセフ・スミスのいとこのジョージ・A・スミスで16歳でした。主はシオンの陣営の目的を果たす為に500人或いはできるだけ多くの志願者を募ることを命じられました。

シオンの陣営[[1]の男性会員らは、一日に20~40マイル歩き、片道900マイルを行進しました。後に第二代目の大管長となり、この行進に参加したブリガム・ヤングは、「夜の11時か12時前に寝ることはほとんどなく、私たちは毎朝3時か4時に起きたものだ。」と当時を回想しています。一行は日曜日には必ず野営し、教会の集会を開き、聖餐を受け、安息日を清く保つようにという戒めに従いました。

以下の記述は「時満ちる時代の教会歴史」に記録されています。

6月18日、預言者ジョセフ・スミスは危険が迫っていることを察し、一行を早く目覚めさせました。リッチモンドの町を通過しているとある黒人奴隷の女性が近づいてきて、興奮しながらルーク・ジョンソンにこう言った。「ここには男達が何人か待ち伏せしてて、あんたらが通ったら殺すつもりだよ。」しかし彼らは何の抵抗も受けなかった。だた荷車の車輪が壊れため、行軍が遅れ、わずか9マイル(約15キロ)しか進めなかった。彼らのもともとの目的地はリバティーであったが、クレイ郡に入ったすぐの、フィッシング川の二つの支流に挟まれた丘が野営地に選ばれた。そこでもジョセフは、暴徒が襲ってくることを知り、神の守護を求めて祈った。ジョセフの恐れは現実となった。武器を持ったミズーリの住民が5人、野営地に入ってきて、ののしりの声を上げ、モルモンは「朝までに地獄を見る。」と誓ったのである。彼らは、400人近い男たちがレイ、ラフェイエット、クレイ、ジャクソンの各郡から集まり、モルモンを皆殺しにするためにウィリアムズの渡し場でミズーリ川を渡ろうとしていると誇らしげに言った。こうして暴徒が発砲したため応戦しようとする者もいたが、預言者は主が必ず守ってくださるからと約束して、こう語った。「静かに立って神の救いを見ようではないか。」
5人のミズーリ住民が野営地を去って数分後、西の方の青空に小さな黒い雲が現れた。それはまるで巻物を広げるように東の空に広がり、天が暗闇に覆われてしまった。そして、暴徒の第一陣をいっぱいに載せた渡し舟がミズーリ川を南に進んでいたとき、突然の激しいスコールが襲い、渡し舟は戻って第二陣以降を運ぶことができなくなってしまった。嵐は非常に激しく、シオンの陣営はテントをあきらめ、近くの古いバプテスト教会の教会堂に非難せざるを得ないほどであった。教会堂に入って来たジョセフ・スミスは大きな声でこう言った。「みんな、このことにはある意味があります。この嵐は神が起こされたものだ。」だれも眠ることができなかったので、陣営は賛美歌を歌い、ごつごつした長いすの上で休息を取った。陣営の一人はこう記録している。「広い地平線の上の空全体が恐ろしい雷鳴を伴って燃えているようであった。」
「ほかの所では、集合した暴徒たちが避難する場所を求めていた。たけり狂う嵐のために木々の枝は俺、穀物は倒れ、棒と他赤日の火薬はぬれてい使い物にならなくなり、馬はおびえて散り散りになり、またフィッシング川の水かさが増えた。こうしたことで、暴徒たちはシオンの陣営を攻撃することができなかったのである。預言者はこう回想する。“滅ぼそうとする敵の手から僕たちを守るために、戦いの神が復習の命令を出されたかのようであった。”」
後に使徒になったパーリー・P・プラットオーソン・ハイドは、ダニエル・ダンクリン知事とモルモンの立場について話し合うため、ミズーリ州の州都へ行きました。その会見でダンクリン知事からモルモンたちの援助に州の市民軍を援助に向けるのには反対することを決めたことを告げられました。それは市民戦争になる恐れがあるためだというのです。パーリー・P・プラットとオーソン・ハイドは、野営地にもどり、ジョセフ・スミスにこれを報告しました。彼らは州の援助がなければ、追放され迫害を受けたモルモンたちを彼らの家に戻すことができないことを知っていました。

一方、ジョセフはシオンがいまだ贖われるには不十分で、待つ他にはないという啓示を受けました。

「それゆえ、わたしの民が戒めに背いたので、わたしが必要としているのは、わたしの長老たちがしばしの間シオンの贖いを待つことである。
それは、彼ら自身が備えられるためであり、またわたしの民がもっと十分に教えを受け、経験を得、彼らの義務とわたしがその手に求めることに関してもっと十分に知るためである。
わたしの長老たちが天から力を授けられるまで、これは成し遂げられない。(神殿のエンダウメント)を参照。
見よ、彼らが忠実であり、わたしの前に引き続き謙遜であるならば、わたしは、一つの大いなるエンダウメントと祝福が彼らに注がれるように用意をしている。
それゆえ、わたしが必要としているのは、長老たちがしばしの間シオンの贖いを待つことである。
見よ、わたしはシオンの戦いを戦うことを彼らの手に求めない。「わたしはあたがたたの戦いを戦う」と、以前の戒めの中で言ったとおりに、わたしが行なうからである。
見よ、わたしは、敵を滅ぼし荒らすために滅ぼす者を遣わした。これから多くの年がたたないうちに、敵がわたしの譲りの地を汚したり、聖徒たちの集合のためにわたしが聖別した地で彼らがわたしの名を汚したりすることは許されなくなるであろう。

[1]

見よ、わたしの家の勇士、すなわち、わたしの戦士、わたしの若者たちと中年の者たちに、わたしの民の贖いのためにあつまってわたしの敵の見張り台を崩し、その見張り人を追い散らすように告げよ、とわたしは僕であるジョセフ・スミス・ジュニアに命じた。
しかし、わたしの家の勇士はわたしの言葉に聞き従わなかった。
しかし、ある者たあちはわたしの言葉に聞き従ったので、彼らが続けて忠実であれば、わたしは彼らのために祝福とエンダウメントを用意している。
わたしは彼らの祈りを聞いた。そして、彼らのささげ物を受け入れる。信仰の試練として、彼らがここまで連れて来られることは、わたしにとって必要であった。
(教義と聖約105:9-19)

7月3日に、ミズーリ州の聖徒たちとシオンの陣営の会合が開かれ、陣営は解隊され、少数のグループに分割した上、帰途に着きました。ジョセフ・スミスは7月12日までミズーリに残り、ミズーリ州の聖徒らを励まし、援助しました。 主からの懲らしめとして経験したコレラ感染の含め、行軍は、試練と困難の時でした。シオンの陣営のミズーリの聖徒たちを援助してシオンの土地を奪回するという目的を達することは失敗に終わり、抗争や迫害を止めることはできませんでしたが、シオンの陣営の行軍から得られた積極的な成果も幾つかありました。困窮状態に苦情をもらす者も多く在りましたが、続けて前進し信仰を表し続けたものは、鍛え磨き上げられ霊的に精錬された者にしました。試練が益となり学びとなり、この時期召された 十二使徒のうち9人と七十人定員会のすべてはシオンの陣営に参加しました。これらの人の中には、ブリガム・ヤングやヒーバー・C・キンボールなど後にノーブーから大平原を越えて、ロッキー山中に移住する聖徒を導いた人々にとっては、かけがえのない訓練の場となりました。ブリガム・ヤングは当時を回想して、人生で最も学んだ時期だったと述べています。

参考資料

  1. ミズーリ州の市民戦争はアメリカ西域に沿って1850年代に「流血のカンサス」(Bleeding Kansas)として知られる争いで始まりました。法律で奴隷制度が許可されているほとんどの北部の州は、ミズーリ州での戦争が特に殺戮的なものになることは回避できませんでした。予測通り、バージニア州とテネシー州を除き、ミズーリ州では1000以上という最大の数の戦争と抗争が起こりました。ゲリラ戦がほとんどの州で展開されたにも関わらず、ほとんどの事件はミズーリ州北部で勃発し、田舎に住んでいる個人や家族の待ち伏せというのが特徴でした。これらの事件は、両軍いずれもの命令や管理外で行なわれた油断できない性質のものでしばしば近所同士で行なわれたため、卑劣きわまるものでした。

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