イエス・キリストのバプテスマ
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四福音書—マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ—は、新約聖書の中でイエス・キリストのバプテスマを記録している唯一の記録です。これらは類似した内容を含んでいるものの、いくつかの小さな相違点もあります。ある人々は、これらの違いに対して、疑問やいらだちを覚えることもありますが、モルモンにとってそれは、むしろこれらの違いが、出来事が真実であることを証明する唯一の証拠になっていると判断しています。というのは、もし四人の著者の手による四つの福音書に違いがまったくなかったとすれば、それらの違いを談合して統一させた可能性を疑うことができるからです。
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マタイ 3:13-17
- 地理
マタイは、イエスが、バプテスマのヨハネからバプテスマを受ける為にガラリヤからヨルダン川に赴いたことに触れています。一方、マタイ以外にガラリヤに言及している著者は、マルコだけです。ルカは、ガラリヤについてはまったく触れておらず、ヨルダン川のことも述べていません。
- ヨハネ、バプテスマを施すことを辞退
マタイは、ヨハネが、主にバプテスマを施すような資格が自分にはないと考え、イエスにバプテスマを施すことを当初辞退したことに触れているただ一人の使徒です。「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)。 キリストがバプテスマを受けることを主張なさっていることは、バプテスマの儀式の必要性を強調しておられるためで、バプテスマは罪の許しに必要なだけでなく(完全であられるキリストには、当然のことながら罪の許しは必要ありませんでした)、天にある神の王国(日の栄えの王国)に入る為に必須な儀式であることを示唆していると、末日聖徒(モルモン)は信じています。
イエスは、ヨハネに次のように述べられました。「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」(マタイ3:15)。ですから、ヨハネが当初、辞退したいと思ことは、キリスト自らがペテロの足を洗おうとされたことをペテロが辞退したことと平行しています(ヨハネ13:8)。ここで最も重要なことは、主が弟子たちの資格を問うておられるのではなく、キリストを信じて従う人々に、キリスト自らが救いの儀式の重要さを示す為に、模範を示され、手本を示されたことです。イエス・キリストは、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。」(ヨハネ13:15)と言われました。これに習って、ジョセフ・スミスは、洗足の儀式の必要性を認識し、洗足の儀式を預言者の塾に入る許可のための一部としました(教義と聖約 88:140, 141, 124:37-39)。
- 観点
マタイは、イエスの立場からバプテスマの出来事について記述しており、イエスご自身が、「天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった」(16節)と記録しています。マルコの記述は、この観点を確証しており、またルカも同様に同じ観点から出来事を記述しています。しかし、ヨハネの記述は、異なっており、ヨハネが目撃者として証を述べています。「ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。」(ヨハネ1:32)。
- 「すぐ、水から上がられた」
マタイの記述には、「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。」 (3:16)と書かれています。これは、イエスが水の中に入って、その体を浸されたことを指摘しています。そうでなければ、「水から上がる」という表現は使わなかったはずです。古代、バプテスマは、体全体を水に沈める浸礼によって行われていました。バプテスマのヨハネがジョセフ・スミスとオリバー・カウドリにバプテスマを施す権能を与えた時、バプテスマのヨハネは「水に沈めるバプテスマ」と指定してします(教義と聖約13:1)。さらに使徒ヨハネは、当時のバプテスマの様式を裏付けるように次のように記しています。「ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。」(ヨハネ3:23)。さらに水に沈めるバプテスマについて、パウロは次のように記しています。「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られた(burried with [Jesus] by baptism into death)のである。」(ローマ6:4)。この聖句が示すように、バプテスマの儀式の象徴が、葬られる(Burried=埋葬される)ことを示しているのは、バプテスマが水の中に沈められる儀式であったことを示しています。ですから、単に水を振りかけるのでは、パウロの意味していたバプテスマの象徴にはなりません。バプテスマには、そもそも、神の目から見て罪を犯していた古い自分を悔い改めて、葬り去ることがその儀式の一つの象徴です。ですから、正しいバプテスマの方式は、イエスのバプテスマと同じように、完全に体を水に沈められるものでなければいけないとモルモンは信じています。バプテスマの儀式の持つ象徴の意味についての詳しい説明は、水に沈めるバプテスマを参照してください。
- 「鳩のように」
マタイは、イエスがバプテスマを受け、水から上がって来られた時、彼の前に天が開けて、イエスが神の御霊(みたま)が鳩のようにくだるのをご覧になり、彼の上にとどまったと述べています。「…のように」という言葉は、特徴の類似を示しています。御霊(みたま)とは、聖霊のことを指しており、キリストの上にみたまが降り立った様子において、鳩が下ってくる様子に似て、軽く、滑らかに降ってくること、或いは、鳩が(のように)聖霊の象徴として降ってこられた、モルモンは信じています。聖霊は、神会の霊のお方で、その霊の形は、人の姿をしておられますから、聖霊が鳥の体に入って天からくだって来られたのでもなければ、鳥に化身したとは信じていません。
- 天からの声
マタイの記述は、イエスのバプテスマに居合わせた人々に、天からの声が語りかけていたことを示しています:「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17)。これは、人々がイエスが聖なる御子であることを知ることに、マタイが関心を払っていることを示唆しています。
- 神会のお三方
マタイは、三人の別個の存在を記述しています。: 1. 肉体を持ったイエス 2.天の父(イエスとは別の存在であり、存在している場所が異なる。またご自分の一部としてではなく、イエスをわが子として表現しておられる。それぞれのお方の別々の行動が明瞭に記述されています。)3.聖霊/神のみたま(これも独立した別の行動が別の場所で行われています。)これらのことと、他の聖句(例えば、 イエス・キリストの十字架刑で、イエスが永遠の父なる神を呼び求めている記述:マタイ27:45)、経験、啓示などを根拠として、モルモンは、神会の三位(三方)は、明らかに三人の別々の方々で構成されているという真理を信じており、この信条は、モルモンの教義上重要なポイントです。
- バプテスマの後の出来事
マタイは、バプテスマの直後、イエスが40日の間、荒れ野に行かれたことを指摘しています。
マルコ 1:9-11
- 地理
マルコは、イエスが単にガリラヤから来られたということだけでなく、ナザレから来られたことを特筆しています。ルカやヨハネのいずれもが、イエスがガリラヤに居られたことは示していません。さらにルカはガリラヤのことを指摘していないばかりか、ヨルダン川さえ記録していません。
- 「水の中から上がられるとすぐ」
マルコも同様、イエスが、「水の中から上がられるとすぐ」(1:10)と、バプテスマの様子を記述していますが、ルカの短い記述やヨハネの記録に書かれているとおり、ヨルダン川のこと意外、バプテスマがどのように行われたかは記述されていませんが、川でバプテスマが行われた事実を踏まえ、バプテスマは体を水に沈めなければいけないことを含蓄しており、もしそうでなければ、体を沈めるに十分な条件を満たさなかったはずです。
- 「鳩のように」
鳩のように聖霊がくだってきたのを目撃したのは、ヨハネです。
- 天からの声
マタイの報告では「これはわたしの愛する子」とバプテスマに居合わせた目撃者に対して天父が語りかけておられる一方、マルコの記録は、天からの声が、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(1:11)と、イエスに直接語りかけられていたことを報告しています。いずれも、イエスが聖なる御子であることが、確認されています。
- 神会のお三方
三人のお方—御父、御子イエス、聖霊—がすべて別個の場所で、別の行動をなさり、それぞれ異なった姿態であることが記述されています。
- バプテスマの後の出来事
.マルコもまた、バプテスマの直後、イエスが40日間荒れ野に行かれたと記述しています。
ルカ 3:21-22
- 簡略な記述
ルカのイエスのバプテスマについての記述は、短く(わずか2節)、重要度に欠けるかのように思わせます。ルカは、イエスが、バプテスマを受けられ、天が開いたとだけ記述しています。
- 「聖霊がはとのような姿をとって」
ルカは、聖霊が下ったと記述しています(マタイ=神の霊、マルコ=聖霊、ただし共同訳では「霊」、ヨハネ=聖霊、ただし新共同訳では「霊」、英文欽定訳では、マタイ、マルコ、ヨハネのいずれもが“Spirit”という言葉を使っている一方、ルカは“The Holy Ghost”。ギリシャ語は、ルカだけが聖霊に相当する言葉を用いています。to agion sOmtik O/The Holy to-Bodily = the Holy Ghost マタイ=神の霊・Pneuma tou Theou/Spirit of God、マルコ=霊・Pneuma/Spirit、ヨハネ=霊・Pneuma/Spirit) 「The Spirit 」(The Spirit of God, Spirit of Christなどの場合、神の御霊(みたま)やキリストの御霊(みたま))は聖霊だけでなく、幾つかの概念に対しても使うことができますが、聖霊の務めは、イエスがキリストであるという証する者であるという信条をモルモンは持っています。 ルカの表現の場合、「聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り」という形で記述しています。どんな神も動物の姿をとって現れることができるということは、神の概念の誤解です。そのような概念は、キリスト教以外の宗教で頻繁に見られます。ジョセフ・スミスは、ある説教の中で次のように述べています。「バプテスマのヨハネは、証をするという務めにおいて、鳩のしるしで…聖霊がくだるのを目にする特権にあずかった、…聖霊は、ひとりのお方で、人の姿をしておられる…聖霊ははとに化身することはできないが、鳩のしるしは、その行ないが真実であることを意味する為に与えられた。それは鳩のしるしは、真実或い無罪潔白の象徴また証拠であるからだ。」(「教会歴史」第5巻、 pp. 260-261)
- 天からの声
天からの声は、イエスのバプテスマを目撃した人々に向かって語られたのではなく、ルカやマルコが、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(ルカ 3:22)と指摘したように、イエスに対して語りかけました。
- 神会のお三方
別個の三方が指摘されており、マタイやマルコの記述を支えています。
- バプテスマの後の出来事
次にルカは、イエスの年齢(およそ30歳)とその系図を述べるために、中断しています。しかし、イエスの行動に記述を戻すとき、イエスが40日間荒野に行かれたというマタイとマルコの報告をマルコは確証しています。
ヨハネ 1:29-34
- 地理
使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネがヨルダン川でバプテスマを施していると記述しています(或いはさらに詳しく言えば、単にヨルダンと指摘していますが、それはヨルダン川のことを指しています)。しかし、ヨハネは、イエスがどこにおられたかは、指摘していません。
- さらに詳しい説明
使徒ヨハネは、他の使徒たちが報告していない幾つかの極めて重要な詳細を記録しています。バプテスマのヨハネが、イエスが来られるのを見た時、彼は次のように言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである(ヨハネ1:29-30)。この意味は、バプテスマのヨハネが、イエスがキリストであることを知っているということです。バプテスマのヨハネの母親エリザベツがそのことを知っていたので、既にヨハネも伝え聞き、そのことを知っていたという可能性も考えられますが、そう考えた場合、ヨハネが、「わたしはこのかたを知らなかった。」(1:31)と述べたことが、疑問になります。
- 「鳩のように」
使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが、「またあかしをして言った」(1:32)通り、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。」(1:32)と証した本人であることを報告しています。 誰が鳩のしるしを見たのかをまとめて見ると、マタイは、イエスが目撃されたとし、マルコはバプテスマのヨハネだったと記録しています。ルカはこのことには言及しておらず、使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが目撃者であったと記述しています。 恐らく、イエスとバプテスマのヨハネの両人が鳩のしるしを見たことに変わりはありません。使徒ヨハネのさらに詳しい記述に基づくと、バプテスマのヨハネが確かに見たことはまったく明らかです。彼は、鳩が「(イエスの)上にとどまるのを見た」と言っており、「しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」(ヨハネ1:33-34)と、記録しています。聖霊がキリストの上に降り立つのを目撃することは、バプテスマのヨハネにとって、キリストがメシヤであることを明らかにされたしるしでした。
- 神会のお三方
神会のお三方、すなわち父なる神、その御子イエス・キリスト、そして聖霊 が、異なる形でイエスのバプテスマその場に臨場しておられます。しかし、これらのお三方は、イエスがキリストであり、長い間、待ち望まれていたメシヤであることの神格とその召しを宣言するという目的において、一致しておられます。
- バプテスマの後の出来事
使徒ヨハネは、イエスのバプテスマの次の日に、興味深い報告をしています。その報告によると、ヨハネはアンデレと名前の示されていないもう一人の使徒と一緒にいました。イエスが通りかかられたときの様子を次のようにヨハネは記録しています。「イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」」(ヨハネ1:36)「神の小羊」という象徴による表現は、イエスがメシヤであるという意味です。間をおかず、二人の弟子はイエスの後に従っていき、彼に遅くまで伴っていました。アンデレが、自分の兄弟のシモン・ペテロのもとに行き、彼はメシヤを見つけたと告げ、シモン・ペテロをイエスのところに連れて行きました。その後、使徒ヨハネは、イエスが40日間、荒れ野で過ごされたことを一度も述べずに、記録を続けています。
要約
四福音書は、モルモンにとって重要な次のような教義を示しています。1.神会には、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊のお三方がおられること。2.キリストの真実の教会に入るためのバプテスマは、神の王国に入る為に必要な儀式であること、3.バプテスマは、体を完全に水の中に沈める方式でなければならないこと。4.イエスがキリストであり、メシヤ、また世の救い主であること(永遠の父なる神、聖霊、そしてバプテスマのヨハネがイエスのバプテスマを目撃しました)。5.聖霊は、鳩のしるしによって、ご自分を明らかにすることができます。
