アダムとエバ
出典: MormonWiki
モルモン(末日聖徒イエス・キリスト教会の教会員)の「アダムとエバ」に関する信条は他のすべての宗教とは異なった見方を持っています(アダム、救いの計画、堕落を参照。)モルモン教会の標準聖典の一つ、高価な真珠の中のモーセ書には、天地創造の物語が詳しく書かれています。モルモン書や教義と聖約同様、現代の啓示を通して、創造に関して追加の情報が与えられました。
末日聖徒イエス・キリスト教会の教義は、この世に基がおかれる前に父なる神によって人が昇栄するための計画が与えられたと教えています。モルモンは、天父が人間の霊の創造者であり(前世参照)、人は皆、この地上に死すべき存在として生まれる前に神と共に生活していたことを信じています。死ぬべき状態は、試しの期間として設けられ、「すべての事物には反対がある」ことは、人に選択の機会を与え、選択の自由を保証しています。この事について、モルモン書には次のように書かれています。
- 「それは、すべての事物には反対のものがなければならないからである。…もし事物に反対のものがなければ、義は生じ得ないし、邪悪も、聖さも惨めな状態も、善も悪も生じ得ない。そうるすと、すべての事物は混じり合って一つのならざるを得ない。したがって、事物が一体となるならば、生も死も、朽ちる状態も朽ちない状態もなく、幸不幸、意識も無意識もなく、死んだ状態で続かなければならない。」(2ニーファイ2:11)
ですから、アダムとエバがエデンの園に住んでいる間に反対の事物を与える必要がありました。それは、選択の自由を活用するには自由意志を使って選択しなければならないからです。神は彼らが戒めに背き、堕落することを承知しておられました。神は彼らに二つの相反する戒めを与えられました。:[第1の戒め]この地上で子孫を増やし、地に満たす、[第2の戒め]禁断の木の実を食べてはならない。「善悪の知識」の木からの実を食べることは、パラダイスの状態のエデンの園からの追放と堕落ににつながり、不完全な状態になることを意味していました。エデンの園にいる間、彼らは不死不滅と不変の状態で、子孫を持つことはできませんでした。つまり、堕落をしてから後しか、第一の戒めを守ることができなかったのです。
- 「また、神がわたしたちの最初の先祖と野の獣と空の鳥、要するに、創造されて現在あるすべての事物を創造された後、人の行く末にかかわる永遠の目的を達するために反対のものが備えられなくてはならなかった。即ち、禁断の実に対しては命の木というようであって、前者は甘く後者は苦かった。」 (2 ニーファイ2:15).
エデンの園で、神は次のように戒められました。:
- 「主なる神であるわたしは、その人に命じて言った。“あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それでも、あなたは自分で選ぶことができる。それはあなたに任されているからである。しかし、わたしがそれを禁じたことを覚えておきなさい。あなたはそれを食べる日に、必ず死ぬからである。”」(モーセ書3:16–17).
- 「ところで見よ、アダムがもし背かなかったならば、彼は堕落せずにそのままエデンの園にいたであろう。そして創造されたすべてのものは、創造された後の状態そのままで存続したに違いない。また、すべてのものはとこしえに存続し、終わりがなかったに違いない。
- そして、アダムとエバは子供を持たなかったであろう。また、不幸を知らないので喜びもなく、罪を知らないので善も行わず、罪のない状態にとどまっていたであろう。
- しかし見よ、すべての物事は、万事を御存知である御方の知恵によって行なわれてきた。
- アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである。
- そして時が満ちると、人の子らを堕落から贖うためにメシヤが来られる。
(2 ニーファイ2:22–26; 2 ニーファイ2:19–21, 27も参照。)
末日聖徒は、アダムとエバの堕落は、救いの計画の中で人が進歩するために必須であり、主要な段階であったことを信じています。また神が、人類を堕落から贖うために永遠の計画の中で救い主イエス・キリストを備えられたことを信じています。アダムとエバは、人類最初の男と女として偉大かつ困難な召しをまっとうしました。このためエバの生活はさらに相当難しいものなったものの、この永遠の計画における人生についてアダムとエバは次のように語ったことが末日聖徒の聖典の高価な真珠のモーセ書にかかれています。:
- 「その日、アダムは神をたたえ、満たされて、地のすべての氏族について預言し始めて言った。"神"の御名がたたえられるように。わたしの背きのゆえに、わたしの目は開かれた。わたしはこの世で喜びを受け、再び肉体にあって神にまみえるであろう。
- 彼の妻エバは、これらすべてのことを聞き、喜びながら言った。“わたしたちの背きがなかったならば、わたしたちは決して子孫を持つことはなく、また善悪も、贖いの喜びも、神がすべての従順な者に与えてくださる永遠の命も、決して散ることはなかったでしょう。”」(モーセ書5:10-11)
教会第10代目の預言者ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876–1972)は、次のように述べました。
- 「アダムは,自分がしなければならなかったことを行っただけです。アダムはある良い動機でその実を食べました。それにより,皆さんやわたし,またすべての人をこの世に送り出す扉が開かれました。アダムとエバはエデンの園にとどまることもできました。エバがあることをしなかったなら,彼らは今日までエデンの園にいることができたでしょう。
- いつの日か,母なるエバと話す機会に恵まれるとしたら,エバに感謝したいと思います。その実を口にするようアダムに勧めたからです。アダムはその誘いに応じました。その結果,子供たちがこの世に生まれて来ることになりました。……エバがアダムにそのような影響を及ぼさなかったとしたら,またアダムが最初に与えられた戒めに従って行動していたとしたら,二人は今でもエデンの園にとどまったままで,わたしたちはここにはいなかったでしょう。この世に来ることはなかったでしょう。ですから,聖書に……「人の恥ずべき堕落」と説明した先ほどの注釈者は大きな間違いをしたことになります。
- さて,アダムは主から期待されたことを実行に移しました。なぜなら,アダムの行為によって死すべき状態に通じる扉が開けられたからです。そして,わたしたちは,ほかのいかなる場所においても,またほかのいかなる方法をもってしても受けることのできない,死すべき状態における訓練を受けるためにこの死すべき世にやって来ました。わたしたちがこの世にやって来たのは,あらゆる祝福と試練を経験するためであり,死すべき状態で死すべきこの世から得られる教訓,あるいは死すべきこの世に置かれている間に得られる教訓を学ぶためでした。だからこそ,苦痛や病を受けるようになったのです。わたしたちが主から受けてきたものはすべて,主の戒めを守ることによって与えられた祝福です。そしてこれからも主に従い,正直で誠実であるならば,日の栄えの完全な栄光を受ける資格を与えられた神の息子,娘として,永遠の父なる神のもとへと戻ることができるのです。
- (「人に死すべき状態をもたらしたアダムの役割」、ジョセフ・フィールディング・スミス、リアホナ2006年1月号、8-9)
末日聖徒は、アダムとエバを中でも最も高貴な神の息子と娘として考えています。アダムは前世においては、サタンの軍勢と戦った天使長ミカエルであり、福千年の後に再びサタンを打ち負かすと信じています。またエバは、アダムと対等な地位にあり、永遠の結婚の聖約で、アダムに結び固められています。アダムとエバは祈りを以ってその子孫を教え、生涯神との交通を保ちました。二人は子供たちを生み、この世の親としての役割の前例なくして彼らを育て、すべてのこの世に生を受ける人間のために家族生活の模範を築き上げました。七十人のブルース・C・ヘーフェン長老とその妻マリー・K・ヘーフェン姉妹は次のように説いています。
- 「エバはアダムの召し使いや従属者だったのではありません。また,“help meet”のhelp に相当するヘブライ語はezer という言葉です。この言葉には,エバが女性に与えられた賜物,すなわち女性特有の霊的な直感を結婚生活にもたらし,天の力を引き出したいう意味があります。
- 「創世3:16には,アダムはエバを「治める」であろうと書かれていますが,これはアダムが独裁者であるという意味ではありません。治める者とは規範を定める者のことです。だとすると,アダムは,人が彼を見て自らの行動の是非を計れるように生きたということになります。治めるということは,力をもって治める特権を得るというより,むしろ教えを説く者として言行を一致させる義務を負うという意味なのです。また,「治める」の英語“rule over”のover に当たるヘブライ語のbet には,他人を治めるのではなく,共に治めるという意味があります。もし男性が「いかなる程度の不義によってでも,……支配」しようとするなら,神はその人の権能を取り上げてしまわれます(教義と聖約121:37,強調付加)。(「人生の波を乗り越えて対等なパートナーになる」リアホナ2007年8月号,29)
教会は、夫と妻の望ましい関係の典型としてアダムとエバの模範を用います。:
- 「恐らく,間違った教えが聖文の本来の意味をゆがめてしまったからという理由で,スペンサー・W・キンボール大管長(1895 - 1985 年)は「治める」より「管理する」という言葉を好んで使いました。大管長は次のように言っています。「教会の幹部が,妻は夫に従って悪を行わなければならないと助言したことは一度もありません。妻は,夫が世の救い主に従って従順であるときに〔限り〕,夫に従わなければならないのです。しかし,〔夫がキリストに従っているかどうかの〕判断に当たっては,妻は常に公正でなくてはなりません。」このように,キンボール大管長は,結婚は「完全な協力関係」であると理解していました。また,このようにも言っています。「わたしたちは末日聖徒の女性に……沈黙の協力者,力を出し惜しむ協力者にはなってほしくないのです。どうぞ,献身的で,完全な協力者となってください。」(「人生の波を乗り越えて対等なパートナーになる」リアホナ2007年8月号, 30)
